凄い一日だった。これが「幸せな結末」というものなのか?
《我々が守るのは公である。国と公は違う。
今日わしが歌う曲の中に、「あんたこそが正直者さ、この国ときたら賭けるものなどないさ」という歌詞がある。しびれる個人主義の歌詞だ。》
凄い一日だった。これが「幸せな結末」というものなのか? | ゴー宣DOJO
《昨日は横浜LIVEで、みんなから過剰な褒め言葉をもらって、お世辞か?わしの余命わずかを予感して同情したか?さっぱり分からなかった。
みんながよしりんよしりんと歓声を上げるし、わしは復活したのか?》
昨日行われたイベントで小林は「議論はもうイヤだ。道場に招いたゲストがおかしな発言をしても黙って聴いていないといけないのが不愉快。だからもう議論はやらない」と語ったそうです。
いや、相手の意見に異論があるならその場で問い質せば良いだけの話であり、それが出来ないのは小林がマヌケな腰抜けだからであり、議論は民主主義の根幹であり基本です。それを否定するのは烏滸の沙汰でしょう。
更に小林は唖然とするような発言をしたといいます。
先日、パーキンソン病を患っていることを公表したタレントの美川憲一の会見を観たというコバヨシはあろうことか、その見た目などを嘲笑し、それは自分だけではなく、みんな内心では思っていることなのにどいつもこいつも偽善者だから口にしないだけ。わしは正直者の不良だから本音を言える。などと口走ったといいます。
それは正直者とは言わずに単なるゲス野郎というのですよ。
美川憲一は同じ病と闘う人を勇気づけたいという思いで公表したのに、それを観てイヤらしく小馬鹿にするとは、鳥山明先生が亡くなったことを嘲笑した件をまったく反省していないようですね。
マジでドクズとしか言いようがありません。
そんなドクズ小林について見事な批評コメントが届いています。
《サミュエル・ジョンソンは、「愛国心はならず者の最後の逃げ場」と言いました。
自分が愛国者であることを演じたり、自分が公を守る者であるかのように演じる人間は得てして胡散臭い輩が多いものです。
例えば、小林よしのりのような人間がまさにその典型です。
「そもそも国家権力を守る者など、愛国者では全くない」と小林は言っています。
しかし、小林がゴー宣でやってきた反権力パフォーマンスと愛国者パフォーマンスは、読者向けのガス抜きに過ぎませんでした。
受け狙いのためにいつも極論を唱え続けたことにより、小林の言説はいつの間にか矛盾だらけなものとなってしまいました。
例えば、小林は「我々が守るのは公である。国と公は違う」と言っています。しかし、小林は『戦争論』では「公」とは「国」であると盛んに力説していました。
どうやら小林は、自分の代表作で唱えていた中心的な思想さえも、受け狙いのためなら平気で否定できるようです。
変節を繰り返す小林は、自分が立派な尊皇家であるかのように演じています。
小林が尊皇の根拠としているのは、愛子天皇の実現という大義のようです。
しかし、愛子さま推しのためなら、ネット番組で秋篠宮一家のことを愚弄できるのが小林という人間です。小林に対しては、「皇族を平気で愚弄する者は尊皇家でもなければ、愛国者でもない」と言うべきでしょう。
小林一派が問題なのは、愛子天皇実現という旗を掲げていれば、自分は正義の存在だから何をやっても許されるという驕りがあることです。
小林は言論人として一時はベストセラーを量産したものの、偏った言説を唱えたり暴走を重ねたせいで多くのファンを失いました。
今の小林をファンとして支持しているのは、彼が何を言ったりやったりしても無批判で賛美してくれる狂信者だけです。
運動団体の独裁者となった小林に対して言説や行いの誤りを指摘して忠告してくれる人は存在していません。
さらに、小林のおかしさに薄々気付いているものの、彼と共依存関係となっていて指摘できない人もいるでしょう。小林と女性師範たちの関係がすでにそうなっていますし、小林と作画スタッフの関係もすでにそうなっています。
女性師範をバンドごっこのバックダンサーに起用することや自分が遊び呆ける一方で作画スタッフをこき使うことに対して、小林は何の罪悪感も持ち合わせていません。小林にとって他人とは、自分が利用するための道具という扱いだからです。
どんなに間違えたり暴走をしたりしても、周囲にイエスマンしかいない状態で軌道修正ができなかったことは小林にとって不幸だったと言えます。
シンパたちからの賛美の声に溺れて自らを省みなかった結果、晩年の小林は漫画家や言論人として事実上の「死」に陥ってしまいました。》(大林わるのりさん)
https://washiblogact3.seesaa.net/article/519451375.html
この記事へのコメント
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/45310
>TBSの、皇位継承問題を取り扱った番組を紹介しています。いい番組だな~と思ったのに、最後の最後で・・・。念のためお伝えしておきますが、私も好き好んでこういう顔を晒しているわけではありません!!!!
小林信者の大隊長まーは、動画を作るたびに顔芸を披露している人物です。しかし、まーはこのブログでは、「私も好き好んでこういう顔を晒しているわけではありません」と言っています。
まーのこの言葉は、言い訳ではなく本心で言っている可能性があります。おそらくまーは、動画で顔芸を披露することを内心では恥ずかしく思っているのでしょう。しかし、本当にそれだけの理由なのでしょうか。
もしかするとまーは、小林に気に入られるためにわざわざ動画を作ったり、門下生たちの受けを狙うために新しい顔芸を披露している可能性もあるのかもしれません。
もしもまーが「小林先生の不興を買いたくない」「門下生たちから動画や顔芸を酷評されたくない」という強迫観念を持ってしまったのならば、動画の作成や顔芸の披露は強迫行為へと変わってしまうでしょう。
そうであるならば、「衝動に従って情熱的に生き、最後は美しく散りたい」と常に口にしているまーでさえ、内心では半端ないストレスを感じているのかもしれません。
まーがいちいち顔芸を披露しなくて済む最良の方法とは、ゴー宣道場から去って日常へ復帰することです。しかし、ゴー宣道場からの退会を決断するのは、今のまーにとっては選択肢として眼中にないのでしょう。
ちなみにまーは、2024年秋の小林コンサートに女装して参加していました。
『よしりんバンド希望ですたい!』
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/15472
>まー隊長の女装が、茶魔美みたいで可愛いと評判だ。また出てもらうから衣装を大事に保管しておいてくれ。
「福岡LIVE、最高に楽しみました!」
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/15478
>ひとかけらさん
(中略)
>ま-隊長の女装も最初誰だか分かりませんでしたがステージの笑いに華を添えるために体を張るプロ意識を感じました。
笹幸恵が書いたブログ記事「福岡LIVE、お疲れさまでした!」には、まーが「JKまー子」に扮した写真が掲載されています。
福岡LIVE、お疲れさまでした!
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/15476
大隊長まーもそうですが、ゴー宣道場で幹部をやっている人たちは内心では気苦労を抱えながら運動ごっこを続けているのかもしれませんね。
https://yoshinori-kobayashi.com/blog/44806
>私の支持率は今は高い位置にあるのよ!私は、働いて働いて働いて、円安・物価高にしてみせます!働いて働いて働いて、他党をマネして消費税0にします!働いて働いて働いて、統一協会の反日・反天皇を実行します!働いて働いて働いて、闇献金をごっそり集めます!働いて働いて働いて、愛子天皇論をぶっ潰します!働いて働いて働いて、皇統は男系男子の男尊女卑にします!働いて働いて働いて、中国とケンカします!働いて働いて働いて、レアアースは止められます!働いて働いて働いて、選挙で700億円の無駄づかいします!働いて働いて働いて、大雪の中、投票に行かせます!働いて働いて働いて、過労死してみせます!
またしても小林よしのりは、下品なポエムで高市首相を罵倒しています。おそらく小林は、ギャグ漫画家らしくユーモアを使った風刺をしているつもりなのでしょう。どうやら小林が理想としているユーモアのあり方とは、ヒステリックな口調でひたすら罵倒して誹謗中傷することのようです。
私が気になったのは、小林ポエムの終わりの方に「働いて働いて働いて、過労死してみせます!」と書かれていることです。
小林ポエムの最後の一文は、高市首相の死を望む呪詛の言葉として読めてしまいます。敵と見なした人間への誹謗中傷を行うためならば、相手の死を願うことさえも厭わないのが小林のやり方なのでしょう。
どうやら小林は独善的な性格の持ち主であるだけでなく、自分が敵と決めつけた相手を異常なまでに憎む癖があるようです。
小林が他人に対して平気で誹謗中傷を行うことができるのは、敵と決めつけた相手に対する病的なまでの憎悪と、「わしは絶対に正しい」という独善的な感情がセットになっているおかげなのでしょう。
ところで話は変わりますが、小林が裸で局部にケースをつけた絵を見て、私はこの回の内容を思い出しました。そういえばこの回で小林は、論敵たちに対して「いつか奴らを殺戮してやる」と言っていましたし、自分が本気を出したらトレンチコートマフィアどころじゃないとも言っていました。
「公」の大切さを熱心に訴えていた当時の小林は、自分の内面にある「私」の感情はこんなにドロドロしているのだとこの回で描いていました。小林のこの露悪趣味的な描写は、今思えばギャグとして描いていたのではなく彼の本性をそのまま描いていたのでしょうね。
それにしても、小林が高市首相に対して「働いて働いて働いて、過労死してみせます!」と煽っている一文は、さすがに私も読んでいて思わずゾッとしました。
例の病の影響なのか今の小林は感情のコントロールができなくなっており、クズな本性を隠そうとさえしなくなっています。現在の小林は「人間のクズ」という評価を通り越して、「もはや人として狂っている」と見なした方がいいのかもしれません。
そういえば『戦争論』を発表した当時の小林は、新ゴー宣の本編でも戦後の日本を何かと批判していました。
戦前戦中の日本は建前を重視し過ぎた社会であったけど、戦後の日本はその反動で本音を重視し過ぎた社会になってしまった、と当時の小林は言っていました。戦後の日本が本音重視で露悪趣味的な風潮になったのは、社会や人々から「公」が喪失したせいだというのが右派時代の小林の主張です。
しかし今の小林は、パブリックマインドを欠いた本音重視を「正直者の不良」の姿勢として美化しているわけです。現在の小林が「わしは正直者の不良だから本音を言える」と言って難病差別を正当化しているのは、「公」がない本音丸出しの状態で露悪趣味発言をしている姿でもあるとも言えます。
小林が憧れている「不良」とは、『戦争論』で描いていた「公」を喪失した「砂粒の個人」の姿でもあります。今の小林が「不良」を目指そうとしているのは、「公」の大切さを唱えた『戦争論』の思想に対する裏切り行為に他なりません。
かつての小林が本音重視を批判してパブリックマインドの大切さを説いていたのは、一体何だったのでしょうか。右派時代の小林が「公共性」だの「公共心」だのと言っていたのは、左派・リベラル派や戦後の日本に対する逆張り言説でしかなかったのでしょうね。
そもそも小林が『戦争論』でパブリックマインドの大切さを説いていたことや、「公=国」であると主張していたことは、盟友で師匠だった西部邁の言説の受け売りに過ぎませんでした。
「公」の重視という『戦争論』の主張の中心さえも他人の言説の受け売りだったことは、小林にはオリジナルな思想もパブリックマインドも持っていなかったことの証明とも言えます。
また、晩年の小林が「不良」になることを目指しているのは、私は別の意味からも違和感を覚えてしまいます。「不良」になってルールや道徳や常識から逸脱することを正当化するのは、小林が立脚している保守主義者としての思想を裏切る行為でもあるからです。
かつての小林ならば保守主義者らしく、「伝統や歴史の知恵に基づいた常識を大切にしろ」とでも言っていたでしょう。とはいえ、小林が唱えている保守思想でさえも西部邁の言説の引き写しに過ぎませんでした
常識の重視という保守主義者らしい主張さえも他人の言説の受け売りであったことは、小林にはオリジナルな思想も人としての常識も持っていなかったことの証明とも言えます。
小林が自らを「不良」と宣言したことは、「公を大切にしろ」「常識を重視しろ」というかつての主張に対する裏切り行為に他なりません。「公」や常識を欠いた「不良」として生きることを目指す今の小林には、保守思想家を名乗る資格などありません。
例えば、小林シンパのmantokunが言っている内容はまさにそうです。
「横浜ライブはよしりん先生大復活」
https://www.gosen-dojo.com/blog/59003/
>受け手として有識者の主張を拝聴するだけだと、左脳で言葉を処理して論理を理解しようとするため、どうしてもお勉強モードになります。(中略)今回の横浜ライブによって、右脳で歌とトークを楽しみながら公論を体感できるという、よしりんバンドの神髄がやっと腹落ちした思いです。
左脳を使うよりも右脳を使うことの方が大事だという小林シンパの理屈は、「門下生たちは思考停止したまま音楽を通じて小林思想に洗脳されるべきだ」という意味にも読み取れてしまいます。
音楽や芸術を利用してイメージによってプロパガンダを刷り込み、受け手を思考停止させて洗脳させるやり方は、ナチスが使っていた手法でもありました。さらにオウム真理教も、教団が作ったアニメや音楽を信者たちの洗脳のために利用していました。
だから小林シンパの表現を借りるならば、あのナチスやオウムの構成員たちだって芸術を通じて右脳で教えを体感できていたということになりますよ。
小林一派が右脳の重要性を唱えてよしりんバンドを正当化しているのは、カルト的な洗脳を肯定することとも等しいものです。思考停止して洗脳を受け入れることを肯定する小林シンパの姿勢は、全体主義の組織で生きる構成員の生き方とそっくりです。
それどころか小林のゴー宣は、漫画で描かれた絵のイメージによって読者にプロパガンダを刷り込む手法で成り立っています。ゴー宣の手法はカルト的な洗脳の手口であると言えますし、原作者の小林は「独裁者になりたい」と作中で公言していた人間でもありました。
小林とゴー宣ファンたちが、後に全体主義的な運動団体を作るに至ったのはある意味では必然だったのかもしれません。
カルトや全体主義は、構成員たちが思考停止した状態であるからこそ成り立っています。音楽を通じて思考停止して洗脳されることを肯定するゴー宣DOJOは、一種のカルトであり全体主義の組織であると決めつけてもいいでしょうね。
ブログ主さまもおっしゃるように、この人は正直者なわけでもなんでもなく(実際自分にとって都合が悪いことについては隠したり誤魔化すことがあるのはイボナメクジ愚行録で拝読しています)、言っていいことと悪いことの区別がつかないだけでしょう。普通に日々生きていれば社会性が自然に身につくことから、そういう区別がつくようになるものですが、引きこもり生活がたたっているのか、性格の悪さなのか頭の悪さなのか、その全部なのかはわかりませんが、それができないまま老人になってしまったのだと思います。
あとこの人はちょっとした我慢もできない人ですね。思ったそばから口にしたりブログに書いたりと、一瞬でも立ち止まって考えてみることができない。もちろんこれも正直者ということではないでしょう。そういう失敗を繰り返しても改善できないのは、おそらく持って生まれた特性なのではないかと思います。
https://www.gosen-dojo.com/blog/58983/
公論サポーター・ただしによる横浜LIVEの感想を読んで、気になった個所がありました。
「ユッキーはシルクの素材と胸元がセクシーで、モッキーはさわり心地の良さそうな素材で、わたしの席からは足のスリットがそれほど見えない代わりに、色っぽい身体のラインに目が釘付けになりました」
「ユッキーの妖艶な表情に目が吸いよせられ、モッキーの何度も見える脇に吸い込まれそうになりました」
笹幸恵のことを「胸元がセクシー」「妖艶な表情」と評し、泉美木蘭のことを「色っぽい身体のライン」「何度も見える脇に吸い込まれそうになりました」と評しているただしの感想文は、どう見てもセクハラ的な内容でしかありません。
女性師範へのセクハラに等しい感想文がブログで紹介されている時点で、ゴー宣DOJOが掲げている「女性の地位向上」という目的は口だけでしかないことが改めて分かります。
そもそもゴー宣DOJOのトップである小林こそが、男尊女卑とミソジニーが骨の髄まで染み付いた人間観の持ち主です。昔から小林は言論漫画やブログでミソジニー的な発言を繰り返してきた人間であり、最近でも高市首相に対して属性差別的な罵倒をしています。
笹幸恵に対する「ともだちんこ」事件を見ても分かるように、小林は女性へのセクハラを全く悪いとは思っていない人間です。小林が考えるゴー宣DOJOでの女性の地位向上とは、「ボスであるわしの欲求を満たしてくれるために女性を道具として利用する」という意味なのでしょう。
小林による笹幸恵への「ともだちんこ」や、ただしによる女性師範へのセクハラ感想文からも分かるように、ゴー宣DOJOは女性へのセクハラがまかり通る組織であることが証明されています。ゴー宣DOJOは腐りきっていると断言してもいいでしょう。
https://www.gosen-dojo.com/blog/58992/
よしりんバンドのバックダンサーをやらされた泉美木蘭が、小林に対して歯が浮くようなおべんちゃらをブログで書いています。
「よしりんバンド横浜ライブ、ものすごく楽しかった。野心も邪心も本性も捨てることなく、「強者」としての牙を復活させて、さあ、また闘いに挑むぞという決意のライブだった!」
横浜LIVEでの小林は、ゴー宣DOJOにゲストを呼んで議論をするのはもう嫌だと発言していました。小林のこの発言は、彼がゴー宣で今まで演じてきた「闘う言論人よしりん」というキャラクターの放棄を意味しています。
言論人としての活動を放棄し、バンドごっこやシンパたちとのなれ合いで生きていきたいという小林の姿勢には「さあ、また闘いに挑むぞ」の決意は微塵も感じられません。
また、泉美は永遠の嘘をつき続けることの正当性さえも力説しています。
「永遠の嘘をつき続けることは、どこまでも孤独を突き通さなければならない厳しい世界でもあると思うけれど、それこそが、人を楽しませ、影響を与えてきた表現者としての矜持でもあり、そして、その矜持を賛美し、励ますという凄い歌が日本にはあるんだよと教えられて、感激するものがあった」
小林にとって永遠の嘘をつき続けるというのは、シンパたちを騙し続けて逃げ切ることを狙った浅ましい気持ちの表われでしかありません。
自分を粉飾して虚勢を張る生き方をしてきたり、間違った言説を何度も唱え続けたり、敵と見なした相手を中傷したりなど小林は嘘を利用して人生を送ってきました。
晩年になってからも小林は、シンパたちの前で嘘をつくことをやめられないでいます。自分は漫画家や言論人として終わっているという事実を隠すためや、愛子天皇実現の目標は達成不可能であるという事実を隠すために、「わしの歌の力で世の中を動かす」という嘘をつくことを小林は選びました。
小林の生き方を見ていると、虚勢を張った生き方や嘘で塗り固めた生き方は最後は身を滅ぼすのだと改めて分かります。起業家となって虚勢を張ったけど短期で会社を潰してしまった泉美木蘭さんなら、このことを誰よりもよく理解しているはずです。
よしりんバンドを美化して小林をヨイショしている泉美の言葉は、果たして本心から来るものなのでしょうか。もしも泉美が自分に嘘をついて小林をヨイショしているのならば、内心ではストレスが貯まっているでしょう。
それに泉美は、小林の病状が本当はどのようなものであるかも察しているはずです。ゴー宣DOJOの関係者の中には、「どうせ小林先生は長くないのだから、死ぬ前に好きなことをさせてやろう」と思っている人がいたとしても不思議ではありません。
自分に嘘をつき続けて違和感をごまかし続ける生き方は、最後は現実を突きつけられて行き詰まりを迎えます。小林にXデーが訪れてゴー宣DOJOが消滅した後は、泉美木蘭は物書きとして果たしてどう生きていくつもりなのでしょうか。
小林が受け狙いのために奇をてらう言動をしたがるのは、「わしを認めてほしい」という承認欲求が根底にあります。彼が承認欲求の強い人間になったのは、幼少期のころに両親に虐待をされて自分を認めてもらえなかったからです。
それどころか、年を取ってからも小林が受け狙いのための露悪趣味発言や逆張りをやめようとしないのは、不良っぽさにこだわっていることともセットになっています。
中学生のころに転校生として出会った不良にいびられた過去や、高校生のころに不良を気取りながら本物の不良におびえていた過去は、小林にとってはかなりの劣等感となったのでしょう。
それにしても、受け狙いのためなら他人の難病を平気で揶揄できるという小林の癖は、人として問題があります。おそらく小林は、笑いのためとはいえ他人の心を傷つける言動をするのは良くないという当たり前のことが分かっていない人なのでしょう。
差別問題に取り組んでいた小林が「ハゲを差別しろ」という差別ギャグを平気で思いつけるのは、笑いを取るためなら他人の心を傷つける言動をしてもいいという発想が根底にあるからです。
笑いを取るためなら弱いものいじめの手法を使ってもいいし、場合によっては他人の難病を揶揄することだって平気でやってもいいという発想が小林にはあるのでしょう。
小林が初期ゴー宣で自主規制問題に取り組んでいたことも、今思えば表現の自由を守るためという立派な動機が元になっているわけではなさそうですね。自分の持ち味である露悪趣味的なギャグを規制されることに対して、小林はあまりいい気持ちがしなかったのでしょう。
「わしが受け狙いのために思いついたいじめギャグや差別ギャグを、偽善的な自主規制で否定されるのはけしからん」というのが当時の小林の本音だったのでしょう。
「わしが他人を傷つけたり差別したりするための表現の自由を守れ」というのが、自生規制問題に取り組んでいたころの小林の本当の動機だったのかもしれません。
しかしながら小林は、ゴー宣で自分を弱者の味方で情の人であるかのように演じて読者を騙してきました。そのせいでゴー宣のファンたちは、小林が本当は弱者に冷たい人間で差別主義者であるということが見抜けませんでした。
それどころか小林は、弱者自体が既得権益と化しているという意味の「弱者権力」なる言葉を作り出し、自分は「弱者権力」から本当の弱者を守る正義の味方だというポーズさえ演じていました。
小林が新ゴー宣で「弱者権力」という概念を生み出してしまったことは、ネトウヨの特徴である冷笑主義に基づく弱者叩きの源流になったと言えるでしょう。
しかし老年期になってからの小林は、今までゴー宣で演じてきた「弱者の味方で情の人のよしりん」というキャラさえも、人前で演じることができなくなりました。
老化や例の病の影響で頭脳が衰えたことにより、小林が持っているクズな本性は分かりやすい形で露出することが多くなりました。ジャニーズ性加害問題での小林による一連の出鱈目な言説は、彼の本性が露わになった結果なのかもしれません。
美川憲一の難病を小林が揶揄したと知った時、「やっぱり小林は元からこういうクズな人間だったのだな」と私は改めて認識させられました。少年時代のころの私が、小林を弱者の味方で情の人であると信じてしまったことは一生の不覚でした。