安彦良和氏との対談、非常に楽しかった
《松濤美術館で、安彦良和氏と対談した。
対談前に展示を見たが、天性の画力の凄さに圧倒されるばかり。
10年ぶりの対談だったが、非常に楽しくて、また10年後に対談しようと、約束して別れた。
いやはや楽しい時間だった。》
超有名な巨匠安彦良和との対談に御満悦のヌケサク作家コバヨシについて、大林論説委員が見事な解説をしております。
《小林よしのりがかましている「傲慢」とは、自分の臆病さや弱さを隠すために虚勢を張ることです。
そもそも文化人としての小林は外では「傲慢」を演じるどころか芋を引くことも少なくありませんでした。
テレビの討論番組では相手にろくな反論もできず、自分が大物と見なした人間に出会うと簡単に媚びてしまうのが小林の「傲慢」の実態でした。
しかし、自分とは意見が正反対の論客に「傲慢」をかますことができない小林の醜態さえも、「どんな意見でも許容する小林先生は度量が広い」とファンたちは勘違いしてくれました。
ゴー宣のファンたちが相手なら、小林は「傲慢」を貫く論破王を演じて情報操作をすることができたからです。
ゴー宣での小林は逆張りによる反権力パフォーマンスによって反骨の人を演じています。
しかしながら、現実の小林は権威主義者でビビリであるため、自分より強そうな相手に出会うと頭が上がらなくなります。
知名度がある芸能人や自分より実績がある文化人や自分より頭がいい知識人や自分より地位が高い政治家に対しては、小林は内心では恐れを抱いている人間です。
小林がゴー宣を通じて強者に喧嘩を売っているのは、「強いものに吠えているわしが好き」というナルシシズムだけではなく、強そうなものに対する憧れや嫉妬心も動機になっているでしょう。
権力や地位や名声に対して誰よりも憧れているくせに、自分の実力では遥かに及ばないことに嫉妬や劣等感を抱き続けてきたのが小林の人生でした。
しかも、小林は「わしのことを認めて欲しい」という承認欲求が強い人間でもあります。
だから自分より強そうな人間に認められると、「あの大物がわしのことを認めてくれた」と小林は舞い上がってしまいます。
小林は権威主義者で承認欲求が強いため、自分を褒めてくれる大物には簡単になびいてしまう癖があります。
旧ゴー宣のころは敵と見なして罵倒していた西部邁や、右派時代のころはあれほど批判していた辻元清美に対しても、出会った途端に小林は相手と簡単に意気投合してしまいました。
自分に愛想良く振る舞う相手に対して、「食わず嫌いで警戒していたけど、実際に会ってみたらいい人だった」と思い込んでしまうお人よしが小林です。
社交辞令を真に受ける小林のお人よしっぷりは、麻原彰晃に出会ってコロッと騙された中沢新一や島田裕巳のことを笑えません。
安彦良和との対談を小林が「非常に楽しかった」と言っているのは、「あの大物がわしのことを認めてくれた」という満足感があるからでしょう。
「安彦良和は実際に会ってみたらいい人だった」という気持ち良さも当然小林にはあるはずです。
社交辞令を真に受ける小林は自分に愛想良く振る舞ってくれる安彦のことを「いい人」と思い込んだのでしょう。
結局、ゴー宣を通じて読者たちの前で「傲慢」を演じている小林の正体は、内弁慶でお人よしの権威主義者に過ぎませんでした。(大林わるのりさん)
https://washiblogact3.seesaa.net/article/519252702.html
大林さんの論評にはいつも感心させられ、なるほどなぁとただただ納得していたのですが、今回のコメントに関しては一部適切ではないなと異論を挟みたくなる衝動を抑えられない自分がいることをお許しください。
大林さんはコバヨシについて、「お人好し」と評していますが、私はまったくそうは思いません。
それはコバヨシが偽装している「世間知らずで口が悪くておっちょこちょいで喧嘩っ早いが義理や人情にゃ厚いお人好し」というイメージに当てはまるものであり、実際のコバヨシの実像とは遠くかけ離れたものであります。
コバヨシは「お人好し」ではなく、「ヌケサク」です。しかも愛すべき「ヌケサク」ではなく、邪悪な「ヌケサク」です。
そこを間違ってもらっては困ります。
大林批評が優れたものであるからこそ、ここは強く指摘しておきたいと思います。
もし、大林さんが「いや、小林は決して邪悪なヌケサクではなく、紛れもなくお人好しな人なのである」というのならば、そのことについても詳しくコメントしていただきたく思います。
私はコバヨシについては「腐り切った邪悪でチンケなヌケサク」であるとの結論に達していますので、その認識が間違いで、「お人好し」な側面もあるというのならば詳しくお聞きしたい!(泉美木蘭の口調で)
この記事へのコメント
しかしゴー宣ファンをやめた今となってみると、小林の人間性や行動原理が分かってしまったために冷めた気持ちとなっています。
「結局、小林は著名人に自分を大物として認められて、チヤホヤされたかっただけの俗物だったのか」
「思いつきで考えた意見を正当化するためや、自分は有力者とコネがあるという箔付けのために、著名人を利用したかっただけだったのだな」
これらの感想が、小林に対する私の気持ちです。
だから、小林が2026年2月に辻元清美と対談を予定しているという話を知っても、今の私は何もワクワク感を感じません。高市政権を批判するために共闘するとか、愛子天皇実現のためにに共闘するとか、そういった理由は小林にとってはあくまでも表向きのものでしょう。
小林による高市批判はいつもの如く受け狙いのための逆張りに過ぎませんし、愛子天皇実現のためという大義は硬直したイデオロギーと化して陳腐なものとなっています。
そもそも小林からすれば、「立憲民主党の有力者である辻元清美と対談できた」という事実を作ることが何よりも重要なのです。有力者を自分の箔付けに利用するためなら、右派時代のころに罵倒していた辻元とも組むことができるのが小林という人間です。
しかしながら今の小林に対しては、辻元としっかりした形で対談が成り立つのだろうかという疑問を感じてしまいます。なぜなら、小林は病の影響で頭脳の働きが衰えている状態であり、ゴー宣DOJOのイベントでもゲストとの議論についていけずに置物と化していたからです。
小林が発症している血管性認知症は不治の病であり、進行中の状態です。しかし今の小林は病識が欠落しており、「トークのリハビリをしていれば、わしの認知症はそのうち改善されるかもしれない」と思い込んで現実逃避しているのでしょう。
さらに、辻元との対談が予定されている日まで、小林の健康は維持されているのだろうかという疑問もあります。今の小林は病人のくせに食事面でも生活面でも療養を軽視しているため、身体にいつ何が起きても不思議ではありません。
それだけではなく、脳出血で倒れてからの小林は明らかに感情のコントロールができなくなっています。
小林が上杉隆のネット番組で秋篠宮殿下を愚弄したり、よしりんバンドの横浜LIVEで美川憲一を侮辱する発言をしていたのは、病による頭脳の衰えで感情のコントロールができなくなっていることの影響でしょう。
今の小林は感情のコントロールができなくなっているため、何かをきっかけにして辻元にも腹を立てて決別宣言をする可能性も当然あり得ます。
一方で辻元からすれば、小林と仲良くしているのはあくまでも建前の態度に過ぎません。辻元からの社交辞令を真に受けて舞い上がってしまった小林は、残念な人でしかありません。
おそらく辻元は、小林のことをまだ利用価値がある人間として見ているのでしょう。「『戦争論』の著者でゴリゴリの右翼とされている小林よしのりとも対談できるほど、辻元清美は度量が広い政治家だ」というアピールを世間に向けてできるからです。
辻元の対談が決まって浮かれている小林に対しては、「この人は言論人としても人間としても、成長できないまま年を取ってしまったようだな」という感想しかありません。
大林わるのり
つまり小林にとっての「いい人」の基準とは、自分をおだててくれる人間のことを指すわけです。だから小林は、出会った人間の社交辞令をそのまま真に受けてしまう癖があります。
旧ゴー宣から新ゴー宣初期のころの小林が呉智英に依存していたのは、ブレーンとして頼っていたからというだけではありません。大コケして黒歴史扱いだった『マル誅天罰研究会』を呉が称賛してくれたことが、小林にとって嬉しかったからです。
小林にとっては、呉智英も「わしをおだててくれる人=いい人」という基準で評価していたのでしょうね。
自分をおだててくれる人間が好きという小林の癖は、晩年の彼がイエスマンの声にしか耳を傾けなくなる傾向へとつながりました。
では、なぜ小林は自分をおだててくれる人間を必死に求めているのでしょうか。それは、小林が「わしのことを認めて欲しい」という承認欲求に長い間苦しめられている人間だからです。
小林が承認欲求にこだわる人間となったのは、幼少期に両親から虐待を受けたことが原因となっています。両親に愛されず認められなかった影響で、小林は「わしのことを認めて欲しい」という承認欲求を社会へと向けるようになりました。
また、小林が自分をおだててくれる人間を必死に求めているのは、彼が自己愛の強い人間であることの影響もあるでしょう。小林の自己愛の強さは、「わしは本当はこんなにすごいんだ」「わしは本当はこんなに優れているんだ」という自身の実力の過大評価とも結びついています。
しかし、小林が自分の実力を過大評価しようとするのは、本当は自分の実力に対して自信がないことの裏返しから来ています。自分の実力に内心では不安を感じていることが、「わしのすごさを認めて欲しい」「わしが優れていると認めて欲しい」という承認欲求へとつながっているわけです。
小林の自己愛や虚栄心は、実際は自分に自信がないことの裏返しでしかありません。虚勢を張って作り上げた偽りの自分の姿を深く愛しているくせに、等身大の自分の姿を直視して受け入れることができないのが小林の自己愛の実態です。
小さいころに両親からありのままの姿の自分を愛してもらえなかったせいで、大人になってからの小林は等身大としての自分を愛することができない人間となってしまいました。
自分をおだててくれる人間が大好きで、おだての言葉を真に受けてしまう小林は確かに「ヌケサク」と言えるでしょう。しかし裏を返せば小林は、自分をおだててくれる人の甘い言葉に頼らないと安心できない気の毒な人間でもあります。
誰よりも自分が大好きな人間である小林は、実際はありのままの自分の姿を愛することができない脆い人間でした。ありのままの自分の姿を受け入れようとせず、自分をおだててくれる言葉を求め続けた結果、小林は寂しい怪物となってしまいました。
いい人であるがゆえに他人を疑わない「お人よし」とは、小林はどう見ても似ても似つかない人間ですからね。そもそも小林は、嘘をついて相手を騙すことをこれでもかと繰り返してきた悪人です。
一方で小林が「ヌケサク」であるとは、言論人としても人間としても愚か者であるということです。物事の本質や人の本質を見抜けず、うわべだけを見て思いつきで判断するのが小林の特徴だからです。
間違った発言や頓珍漢な人物評をいつも繰り返す小林は、ゴー宣で描いてきた「鋭い直感を生かして真実を見抜くよしりん」の人物像とは正反対の人間でした。
小林が「お人よし」とは正反対の邪悪な人間であるのは、他人を自分が利用するための道具と見なしていることからも分かります。彼が権威ある大物に近づくのは、自分の箔付けのための道具にしたいという目論みが動機となっています。
また、小林は身近にいる人間のことを、自分の利益のために尽くすべき存在として道具扱いする人間です。小林によるアシスタントたちへの扱いや、彼が関わった女性に対する扱いや、ゴー宣道場での門下生たちに対する扱いがまさにそうです。
しかし、他人を自分が利用するための道具と見なしている人間には、いつの間にか自分自身が道具として利用されてしまう末路が待っています。小林においても例外ではありません。
例えば右傾化してからの小林は、付き合いのある教科書運動団体や右派陣営のことを、「わしの本の売り上げのために利用している道具」と見なしていたのでしょう。しかし、皮肉なことに小林こそが、教科書運動団体や右派陣営のバックにいる宗教右翼勢力に利用されるピエロとなっていました。
そして今の小林は、側近のちぇぶのことを「わしの独裁を成り立たせるために利用している道具」と見なしています。しかし実際には小林の方が、ちぇぶやコアラ企画のために利用されている神輿と化しています。
平気で嘘をつき、他人を自分が利用するための道具扱いしている小林はどう見ても邪悪な人間です。一方で小林は人の本質や物事の本質を見抜けず、やることなすことが間が抜けている「ヌケサク」でもあります。
それどころか小林は、「他人は自分が利用するための道具」と思っている邪悪な存在であるのに、より邪悪な存在に騙されて自分の方が利用されている「ヌケサク」でもあるわけです。
邪悪な「ヌケサク」という表現は、小林に対する人物評としては言い得て妙ですね。