パーソナルサイト「ちいかわの感想」
前に既に紹介したコメントかもしれませんが、YouTubeチャンネルに届いているコメントをまとめていて、改めて感銘を受けたご意見でしたので、以下に紹介させていただきます。
《結局この人は上下優劣の二元論の世界の住人なんだと思う。
この人がジャンプ出身の売れっ子漫画家を敵視して憎悪するのも二元論に囚われているからって部分がすごく強いんじゃないかな。
あと、この人は極めて悪い意味で職人気質な人だと思います。
漫画家を職人仕事だと思っているから頑なに自分のスタイルを貫くのが立派だと思っているんじゃないかな。
だから連載をいつ終らせるかは作者が決める、作品の人気が高いからといって、連載を伸ばしてくれって編集部に頼まれて新章を描くのは職人の風上にも置けない堕落だとこの人の目には映ってしまうのでしょう。
同時に人気が落ちてきたからと言ってあっさり打ち切りを決める編集部は職人仕事の何たるかを全く理解してない愚か者の集団に見えているんだろうね。
この人の目から見れば鳥山明さんは自分の中の終わり時よりも編集部の意向を取ってダラダラ描き続けた誇りを失った職人崩れなんだと思う。しかもそんな堕落した作品がめちゃめちゃヒットを続けたって言うね。
彼のコンプレックスを刺激するには十分だったと思います。
自分の信念を貫きながらも中ヒット作を量産したこの人も十分に凄い漫画家なんだけどそれが本人には分かっていない。
ゴー宣とかで自身を天才だと言っているのも実のところこの人の出発点が劣等感である事に起因していると思います。
本質が劣等感の塊だから知名度がどれだけ上がってももっと上を望んで決して満足する事は出来ない。
鳥山明さんとは精神性において対極に位置する人なんでしょうね。
だからこそこの人にとって鳥山明さんは極めて目障りな目の上のたんこぶと言うか不俱戴天の敵にしか見えない。
小林よしのり氏を擁護は出来ないしするつもりも無いけど、私の目には二元論と劣等感に取り憑かれて振り回されている哀しい人にしか見えないですね。
それと、この人が死者を冒涜した事に何か言うつもりは有りません。
何故なら小林よしのり氏が小林よしのりしているだけだからです。
例えば、猫が「ニャ〜」鳴いたからって「猫の分際でニャ〜と鳴くとはけしからん」って憤慨している人が居たらどう思いますか?
大抵の人は「猫がニャ~と鳴くのは当たり前、だって猫だからね」って思って憤慨している人を奇異な目で見るかひそかに距離を置くんじゃないかな?
二元論と劣等感で染め上がっている小林よしのり氏が小林よしのりをやっているだけだと思えば腹を立てるだけ時間の無駄だと気付けるはずですよ。
この人に怒りをぶつける暇が有るならドラゴンボールをもう一度読み返した方がよっぽど有意義に時間を使えるし鳥山明さんへの供養になると思います。》(番義勝さん)
https://washioblog.hatenablog.com/entry/2025/10/19/095556
小林は「中ヒット作を量産」してはいないと思いますので、「十分に凄い漫画家」ではないですが、それなりのキャリアのある元有名マンガ家であったことは間違いないので、それを誇りに余生を過ごすことは別に悪いことではありません。
《世間の多くの人たちは、今の小林よしのりのことを漫画家や文化人としてはもはや過去の人として見ているでしょう。
「小林よしのり漫画ブック」の創刊を喜んでいるのはコアな小林信者たちだけであり、大多数の漫画ファンたちからは全く期待されていません。
少年時代のころは小林ファンであった私でさえ、「小林よしのり漫画ブック」が創刊されたと知っても冷めた気持ちしかありません。読む価値もないし、相手にする気にもなれないというのが今の私の感想です。
実際、小林が発表した新作の『おぼっちゃまくん』を私は読んでいませんし、それどころか読む気にもなれません。読む前から作品が面白くないことが分かっていて、しかも読むために金を払わなければいけないものを、わざわざ相手にするのは馬鹿馬鹿しいものです。
ただし、ゴー宣DOJOの門弟でコアな小林信者である人たちならば、今の小林が何を描いても褒めてくれるでしょう。従って小林は信者ビジネスで金儲けをするために、「小林よしのり漫画ブック」の配信を開始したというわけです。
結局、年老いてからの小林は漫画よりもお金を愛している人間となってしまい、表現者としてはすっかり才能が枯れてしまったことが分かります。
一方で、若いころの小林はお金よりも漫画を愛していた人間であり、表現者として成長できる可能性を持っていました。
しかしながら、小林の場合は「漫画を愛しているから何が何でも漫画を描く」という気持ちよりも、「ヒット作家となって世間に認められたい」という承認欲求の方が強い人間でした。
だから、望み通りヒット作家となることができた小林が、漫画よりもお金を愛している人間となってしまったことは必然だったのかもしれません。年を取ってからの小林は創作活動を自己満足と惰性で行うようになり、表現者として堕落してしまいました。
終わった漫画家となった小林がもう一度世間から認められたいならば、「小林よしのり漫画ブック」の創刊よりもやるべきことがあります。
それは言論人としての今までの歩みを反省した自伝漫画(懺悔録)の執筆か、もしくは晩年の闘病や終活の記録を描いたエッセイ漫画(闘病記)の執筆か、この二つしかないでしょう。
小林に漫画家としての誇りがまだ残っているならば、懺悔録か闘病記の執筆に取り掛かって欲しいものです。》(大林わるのりさん)
https://washiblogact3.seesaa.net/article/518406836.html
大林さんのこの見事な分析にも感銘を受けましたが、「若いころの小林はお金よりも漫画を愛していた人間」という意見にはまったく同意出来ません。
その理由については今後愚行録かnoteのどちらかに書こうと思います。
今日は記念日!ついに来た!「小林よしのり漫画ブック」本日創刊!! | ゴー宣DOJO
《令和7年10月17日、「小林よしのり漫画ブック」の
創刊日です!!
漫画家デビュー50周年の節目にこの新たな試み、どこまで進化するか、どこまで大きくなるかは全くの未知数!
そのスタートから見届けられるなんて、こんな幸運はありませんよ!
月額税込800円です。(「800円+税」とお伝えしていましたが、 「税込800円」とお安くなりました!)》
小林のマンガだけで月額800円払おうなんて物好きは信者以外いないでしょう。
月にたった2本だけ。しかも1本は何十年も前に雑誌掲載されたマンガという…
病理学的に、ひとつのサンプルになる新作『おぼっちゃまくん』 | ゴー宣DOJO
《果たしてネットで漫画が商売になるのか?
労力と対価が見合わなければ、止めるし、購読者が増えれば、調子に乗って、もっと描くだけだ。ネットは〆切が絶対的ではない、そこは気楽。ネットは自主規制がない、そこは自由度が広い。ネットはページ制限がない、そこも自由。》
編集者からのアドバイスもなく、配信日という締切を破りまくり、ただ漫然とページ数だけ長い退屈な駄作を配信する未来しか見えないのですが、それは自己責任ですから好きにするが良いでしょう。
しかし、「ネットは自主規制がない」という認識は間違っています。自分でサイトを立ち上げているならともかく、当たり前の話ですが、noteを運営している会社がアウトと判断した表現を掲載したら違反行為としてBANされます。雑誌と比べても全然自由度は高くありませんので悪しからず。
どうせ「労力と対価が見合わないではないか!」などと癇癪を起こし、新作を配信することがなくなり、昔の汚らしい原稿を垂れ流すだけで信者からお布施をむしり取り続けることになるのでしょう。
哀れなのは無知蒙昧な小林信者たちです。
創刊早々、反響続々! 「小林よしのり漫画ブック」おぼっちゃまくん『茶魔、入院す!』配信中!! | ゴー宣DOJO
《創刊早々、反響続々!》
配信3日目でコメント数31。
しかも同じ奴が複数コメントしている状況のどこが「反響続々!」なのでしょうか?
SNSを検索してみても、道場門下生以外は誰も話題にしていませんが、それのどこが「反響続々!」なのでしょうか?
SNSで大反響といえば、「ちいかわ」ですが、「ちいかわ」は1ページ漫画としてX(旧Twitter)に投稿され、誰もが無料で楽しみ、そこから一気に人気が広がり、一大コンテンツになりました。
現在は講談社から単行本化されています。
「ちいかわ」といえば、とあるマンガ家の元ファンサイトでは驚くべきことに、「ちいかわ」の複数エピソードをまるまる転載しており、それはもはや引用の範囲を超えていて、違法性バリバリ伝説です。
さすが小林信者はどうかしてるぜ!
作者がSNSにUPしているからといって、それをフリー素材のように勝手に転載し、自分のサイトの訪問者を増やそうとするなんて常軌を逸した行為です。
その事実が作者本人や講談社にバレなきゃ良いとでも考えているのでしょう。
コロナ禍において、医療従事者への名誉毀損バリバリの誹謗中傷もバレずに切り抜けられたことに味をしめたのでしょうね。
驚きだよ。悲しいことだよ。
この記事へのコメント
小林の言論活動はあらゆる意味で問題が多いものであり、知識人や思想家として肯定的に評価できるレベルではないことは言うまでもありません。知識人や思想家として終わっているという意味で、小林は言論人としては死んでいると言えます。
また、頭脳の衰えのせいで言論関係の仕事ができる状態ではないという意味でも、小林は言論人としてはすでに死んでいると言えるでしょう。
今日(10月25日)のゴー宣DOJOのイベントに参加した小林は、政治家や知識人とまともに議論ができる状態ではなかったようです。保守とリベラルの違いとは何かという真面目な話題にさえも、小林はついていくことができませんでした。
今の小林の頭脳ではゴー宣のシナリオやメルマガの執筆は無理でしょうし、スペシャル本を描くために参考文献を読むことも無理でしょう。時浦による代筆疑惑は黒に近いグレーどころか、100パーセントの確率で黒と断定してもいいでしょうね。
おそらくちぇぶや小林は、今後もゴー宣DOJOのイベントを開くつもりなのでしょう。しかし、これまでのように政治家や知識人をゲストとしてイベントに呼んだ場合は、恍惚の人となった小林が議論についていけずにさらしものになるだけです。
小林が人間として最低限の「恥」という概念を知っているならば、言論人や運動家としての引き際を考えるべきでしょう。
政治家や知識人をゲストとしてDOJOのイベントに呼ばないならば、小林が議論で恥をかくことはありません。しかしその場合は、ゴー宣DOJOは「公論形成」を目指した運動団体ではなくなり、小林のカラオケ活動が中心のファンクラブとなってしまいます。
つまり、ゴー宣DOJOもまた運動団体としてはすでに死んでいるも同然だと言えるでしょう。
10月25日のイベントについて言えるのは、小林よしのりの言論人としての「死」が事実上証明された出来事であったということです。
https://www.gosen-dojo.com/blog/58065/
「もはや師範の権威は消滅したも同然」という小林の言葉から分かることがあります。今のゴー宣DOJOは、師範たちよりもちぇぶの方が強い権力を持っているということです。
ちぇぶがゴー宣DOJOで専横を行うことができているのは、小林のお気に入りの側近という立場にあるからです。ただしゴー宣DOJOの門下生たちは、内心ではちぇぶのことをあまりよく思っていないでしょうね。
ちぇぶは高圧的な態度で人に接してくるから嫌いだけど、小林のお気に入りだから逆らえないというのが門下生たちや師範たちの気持ちなのでしょう。
「年間のスケジュールは総合pちぇぶが決めている」「お膳立ては門下生が整えて、わしが追認してるだけだ」といった小林の言葉から次のことが想像できます。ゴー宣DOJOでは表向きは小林が独裁者ですが、実際の彼はちぇぶに組織運営を丸投げしているということです。
昔から小林は世間知らずで社会性がない人間であり、いつも補佐役がいた状態でやっと生きていくことができていた人間でした。ゴー宣DOJOでの小林は、やはりちぇぶにおんぶにだっこの状態で独裁者として振る舞えているのでしょう。
しかし、ゴー宣DOJOでの今の小林の立場はある意味では悲劇です。小林はちぇぶを部下として利用しているつもりなのでしょうけど、実際はちぇぶに小林が神輿として利用されているのですからね。
病人となった小林がイベント参加やよしりんバンドをやめられないのは、判断力の低下のせいだけではありません。ちぇぶにおだてられた小林が、「わしにできることはまだある」とその気になっているからです。ところがちぇぶは本心では、小林の健康よりもコアラ企画の金儲けの方を優先しているわけです。
ちぇぶのおべっかに騙されて無理を重ねている小林の姿は、あまりにも痛々しいものです。安岡正篤ややしきたかじんの晩年がそうだったように、小林は老いらくの恋のせいで自分の置かれた立場を理解できていないのでしょう。
https://www.gosen-dojo.com/blog/58051/
>広井が脳溢血の闘病漫画を描けと強く勧めるが、「目の玉日記」が広井に騙されて描いた過去があるので、ポカが大反対、その攻防もおかしかった。
過去に広井に騙されて『目の玉日記』を描かされたと小林が言い訳しているのは、スタッフに対する責任転嫁でしかありません。小林は脳出血の闘病漫画の執筆さえも面倒くさがっていますし、どうせ描いても売れないと諦めているのでしょう。
かつてはエッセイ漫画として描いていた内容であっても、ブログに書いたりゴー宣DOJOのイベントで話せばシンパが褒めてくれる状態に小林は慣れています。そのせいで、小林はエッセイ漫画を描く気力さえもなくなってしまいました。
しかも小林は惰性で作品を描いても、宗教団体の信者たちが本をまとめ買いしてくれる状態に慣れてしまいました。もはや小林は漫画家としての魂を捨てています。
>今日は歯医者の予定だったが、唇の痺れが酷くて、口を開けたままにできないので、診察をキャンセル、しばらく待ってもらうことにした。
小林が気迫でしびれを無視しようとしても、唇のしびれが決してなくなるわけではありません。つまり、小林が「病は気から」と言っていても、一連の病気の後遺症は彼に厳しい現実を突きつけているのです。
>美女が熱烈にキスしてくるか、高市早苗の夫みたいに、入浴介助してくれる美女がいれば、この痺れも消滅するだろうが?
小林はエロネタで介護という行為をジョークにしています。彼のエッチなジョークは介護の仕事を馬鹿にしていますし、高市夫妻に対しても失礼です。小林は男尊女卑のスケベ男であるため、自分のセクハラやエロネタはユーモアとして許されるべきだと思っているのでしょう。
おそらく小林はよこしまな性欲が動機で、自分が美女に介護されることを望んでいるのでしょう。新作の『おぼっちゃまくん』で茶魔が女性看護師に欲情するシーンは、やはり小林の入院中の願望が作品に反映されていた可能性がありますね。
小林が『おぼっちゃまくん』をエロネタで汚したことは、笹幸恵への「ともだちんこ」事件と同じく、「やはり病気が原因で……」と察しが付いてしまいます。小林はもともとスケベ男でセクハラ体質ですが、血管性認知症の影響で性欲に対する自制心さえもなくなっているのかもしれません。
DOJOブログをつらつら見ていたら、百式改がnote記事をあげたのと同じ10月21日のオースガブログに、件の言葉について「井上毅の元ネタは沼間守一」と正しく記載されていました。
同じDOJO幹部としてオースガに対抗してかしこそうな事を書きたかったが無理なのでAIに助けを求めたらデタラメ作文が出てきた、ということなのかな。
https://www.gosen-dojo.com/blog/58028/
>11月14日配信の漫画ブックの「おぼっちゃまくん」のコンテを、昨日、完成させた。あとはペン入れだ。
「あとはペン入れだ」と小林は言うものの、実際はペン入れの大半をスタッフに丸投げさせているのが現実でしょう。まあ、小林の仕事のやり方や態度の影響で、スタッフによるペン入れが手抜きになる可能性は大いにあるでしょうけどね。
今の小林よしのりは、過去の遺産に頼りながら自己満足と惰性で仕事をする漫画家になり果てました。しかも小林が信者ビジネスを目論んで始めた漫画ブックは、どう見ても「大コケ」と言っていい惨状です。
>わしは今日から、ゴー宣286章のシナリオ、コンテに着手する。その前に読まなきゃならない史料本が何冊もあって、わし1人の頭脳では、追いつけないくらいで、本当に辛い。
現在の小林は、ゴー宣のシナリオの執筆をブレーン担当の時浦に代筆させているのが現実です。もちろん、ゴー宣を描くための参考文献の読書も時浦にやらせているのでしょう。
代筆疑惑を隠すために「シナリオやコンテの執筆」をアピールし、認知症疑惑を隠すために「参考文献の読書」をアピールしているのが小林の姑息さです。小林先生、嘘をつくのはやめなさい。
>金曜には脳溢血のことで、仕事場にテレビの取材が入るらしいが、まだ手や顔面に痺れが残っているので、どう元気を装うか不安ではある。
小林は自己顕示欲が強くて構ってちゃんだから、自らの闘病体験を話すという形であれテレビの取材を受けるのは嬉しいでしょうね。なぜなら小林は、大物文化人として認められたいという承認欲求が強い人間だからです。
「どう元気を装うか」と言っていることから分かるように、小林はテレビカメラの前でも虚勢を張るつもりのようです。病に倒れた後も虚勢を張る生き方をやめられないでいる小林の有様は、実に滑稽で哀れです。
>土曜はいよいよゴー宣道場だ。これも人々の懸念を払拭するために、姿勢と発音に気をつけねば。
ゴー宣DOJOでは「姿勢と発音に気をつけねば」と言っている小林は、「単語の言い間違いや物忘れに気をつけねば」とは言っていません。結局、小林は自分が認知症であることに全く触れようとせず、病状の深刻さを直視できないままでいることが分かります。
逆張り、アンチ思考、ルサンチマンで天上天下唯我独尊の傲慢さなんて世間知らずの無能か社会不適合者で厄介者だから、その結末がどんなものなのかは火垂るの墓を見ればわかるから、野坂昭如にもかなわない。
今ではもう、東大一直線なんてしらない、おぼっちゃまくんなんて下品な漫画があったな、ゴーマニズム宣言って社会に逆張りするだけの有害な漫画で見る価値もないというのが社会の評価で、小林自身は炎上系インフルエンサーとしか見られていない。
SNSが出てきてから存在価値がなくなって、あったとしてもいらじと同じ立ち位置しかなく、漫画家というより無職としか見られてないよ。
だから、コロナの時にステイホームでSNSやオンラインゲームで繋がってた人達に逆張りしたかったのでしょう。それがいらじや日おじのように有名作家にうざ絡みする売れない作家と見られてネット民から煙たがられてるのです。
自分の才能を認めない社会が悪いではなく、社会不適合者の世間知らずでジコチューな自分が悪いと認めない限り、社会は許してくれないよ。
面白いと思うか思わないかは自由です。漫画をパラパラとしか読まない大多数の層にとってはそのくらいのものでしょう。しかし、それをプロの漫画家が言うか?面白くないと言うならまだしも「理解できない」というのですから。
漫画の読み方もわかってないのです。
「リングにかけろ」は一応ボクシング漫画ですが、マトモにボクシングをやってるところなどほとんどありません。「ギャラクティカマグナム」と技の名前を叫んで拳を振れば相手はリングから吹きとばされ壁に突き刺さります。これはボクシングをまともに描いた「あしたのジョー」なんかに比べれば邪道もいいところですが、漫画表現の新しい方法論を開拓したと言っても過言ではないでしょう。その後の「男熟」から「バキ」に至るまで、この大げさな演出が連綿と続いていくのです。そのくらいプロの漫画家なら読み取って欲しいもんなんですが、自分と作風の違う漫画はまるで理解できないという、20代にしてすでにおじいちゃんのような感性しか持っていなかったのでしょう。
あと、「リングにかけろ」とずっと言いましたけど、小林は他者の作品について一切興味を持たないらしく同じ車田作品の「星闘志星矢」と間違えていました。小林がデビューした頃のジャンプなら「リングにかけろ」でしょう。小林も「なんとか言って拳を振る」と言ってましたから。ここで作品名を間違う、覚えていないというのは認知症ではなく、ただ単に興味がないだけでしょう。同時期にジャンプに連載されていたヒット作に「何が面白いのか理解できない」と言い、そのタイトルすら覚えていない。同業者の作品にそういう手できたか、とか、そんなの邪道だとか論評すらできない、これがプロでしょうか。とても漫画を愛した人には見えません。