村はずれの狂人と愛知県40代女性
大林わるのりさんによる「小林よしのりと宗教右翼の密接な関係」についての論考は教科書運動参加以降のゴー宣の中の幾つかの違和感やゴー宣道場参加時に体験した不快感についてようやく腑に落ちましたので、その論考をまとめようと思うのですが、まずその前に短めに西部邁のことについて取り上げましょう。
《小林が唱えている保守思想が、師匠の西部邁の受け売りなのは言うまでもありません。
かつての西部邁は、中曽根康弘の御用学者でした。
リクルート事件の頃は、西部は中曽根を擁護する発言をしていました。
西部はやがて新自由主義に批判的となり、中曽根とはいったん距離を置いたかに見えました。しかし、西部は2000年代に中曽根と改憲に関する共著を出しています。
西部邁は官僚制度の擁護者でもありました。
橋本行革や小泉構造改革に批判的であったのは、新自由主義に対する批判という意味合いだけではありません。西部による官僚擁護は、日本型の官僚システム(=1940年体制)の代弁者としての意味合いもありました。
旧来の官僚制度の御用文化人であった西部の言説を受け売りして、小林は官僚制度擁護を唱えているのです。
西部邁は消費税制度の支持者でした。
彼は累進課税と消費税をセットとする必要性を考えていたようですが、現実には、日本の消費税制度は社会の新自由主義化を推し進めるために利用されました。消費税が増税されるとともに、企業の法人税は減税されていったのです。
また、橋本内閣が消費税増税と緊縮財政を行ったことにより、景気が悪化しました。
日本の財政危機を必要以上に煽り、緊縮財政や消費税を推し進めるとことは社会の新自由主義化ともセットなのです。さらに、これらの言説の旗振り役をしてきたのは財務省(旧大蔵省)でもあります。
小林の師匠だった西部邁は友人で元大蔵官僚の榊原英資の影響を受けていました。もしかすると西部による消費税支持の言説は、財務省(旧大蔵省)のプロパガンダの役割を果たしていたかもしれません。
消費税を支持した西部邁の言説は間違っていたのです。西部の言説を受け売りし、消費税を支持しているのが小林なのです。
小林は自分の頭で何も考えず、過去に西部が主張していた言説をそのまま発言しているだけです。何しろ、小林が唱えている保守思想の言説だって西部が唱えていた言説の受け売りですからね。
西部を初め日本の右派たちが保守しようとした伝統精神は、多くが明治以降に作られたものでした。明治以降に作られた似非伝統を守ろうとすると、どうしても大日本帝国の復活という反動的な思想に行き着いてしまいます。
大日本帝国は日本の右派たちが夢見ているようなユートピアではありませんでした。保守思想によって戦後の社会を批判したものの、一方で戦前の日本の美化につながってしまったのは西部の言説がもたらした過ちであったと言えます。
戦後民主主義に批判的であった西部邁は、人権思想に対しても否定的でした。小林が基本的人権に否定的なのは西部邁と呉智英の受け売りでしょう。小林に人権否定論を吹き込んだ西部邁と呉智英の責任は大きいです。
「戦後民主主義が悪い、国民主権が悪い」という小林よしのりのボヤキは、自分がかつて影響を受けていた右派の人たち(特に西部邁)の言説の引き写しでかありません。
戦後民主主義や国民主権を否定して、国民みんなが皇室を崇拝する国が小林の理想の日本でしょうか。まるで大日本帝国ですね。その天皇カルトの国は、国策を誤った末に戦争で負けて滅んでしまいましたよ。
戦後民主主義や国民主権を否定して、盲目的に天皇を個人崇拝し、女系天皇支持に固執し、皇位継承問題や皇室について異常に関心を示している小林一派は、もはや狂信的なイデオロギー集団と化していると言えるでしょう。
小林よしのりの盟友でブレーンとなった西部邁は、オウム事件が起きる前は、オウム真理教に同情的な主張を著書に書いていたことがあります。
西部はオウムに対して同情的であり、教団を警戒していた信者たちの親や世論の声に対して批判的だったのです。
オウム事件の後の西部は、教団を擁護していた過去を隠し、強硬な反オウムの立場を演じて乗り切りました。まさに、『はだしのゲン』に登場する鮫島伝次郎に匹敵する変節っぷリです。
しかし、オウムと戦っていたはずの小林はオウムに甘かった西部と握手をして盟友にまでなりました。
小林は自分をチヤホヤする人間に対しては、相手がどんな立場であっても簡単になびく癖があるのです。
坂本弁護士一家行方不明事件の真相を探っていた弁護士たちによる入れ知恵のおかげや、教団との裁判沙汰で反オウムになったおかげで、結果的に小林の言論のやり方がうまくいっただけでした。
小林によるカルト批判の姿勢は実に底が浅いものでした。その結果、統一教会やオウムといったカルト宗教と戦っていたはずの小林は、歴史教科書運動を通じて自らがカルト宗教勢力の手先になり下がってしまったのです。
小林よしのりと西部邁の対談本『本日の雑談』によると、西部は幸福の科学を「似非科学」と言ったことを同教団の関係者に謝罪していました。そして、彼によるリップサービスなのか幸福の科学の教えに対して部分的に褒めていました。
過去の西部はオウム真理教を擁護しただけではなく、幸福の科学に対してもどことなく甘い態度をとっていたようです。
西部邁がそうですが、右派の言論人たちは新興宗教に対して甘い態度をとっている人が多いのです。右派の政治運動の支持母体は宗教右翼勢力であり、右派の言論人は宗教右翼の組織票に頼って言論活動をしている、という裏の事情があるから無理もありません。
西部邁の盟友だった小林よしのりも、宗教右翼の組織票に頼って言論活動をしていました。小林の著書『戦争論』は、宗教右翼勢力を支持母体とした歴史教科書運動に彼が参加していたころにベストセラーとなっています。
西部邁が唱える保守思想の特徴は大衆社会批判であり流行批判でもありました。しかしながら、西部邁が思想家として有名になれたのはテレビ番組への出演を繰り返していたからでもあります。
西部邁は大衆社会批判を唱えていたのに、彼がもたらしたのは「保守思想の大衆化」という事実だったのです。
西部は軽々しく流行に乗ることを批判していたのに、彼がもたらしたのは「俗流化した保守思想の流行」という事実でした。西部邁が保守思想を俗流化して広めたことは、日本が右傾化して、誰もが軽々しく保守を唱える風潮を作ることに加担したのです。
西部邁が唱える反米保守や対米自立の言説は、アメリカ属国体制での大衆のガス抜きを果たしただけでした。
西部邁が盟友になってからの小林は、言説が徐々に右傾化していきました。
小林の主著である『戦争論』がベストセラーになったことにより、影響を受けた読者たちがネトウヨとなりました。ネトウヨの言説のフォーマットを作ったのは小林なのです。だから、小林がネトウヨの教祖と呼ばれるのは仕方がありません。
小林が右傾化してネトウヨの教祖となるのに大きな役割を果たしたのは、師匠の西部邁であることは無視できません。
西部の言説を通して、左翼批判や戦後民主主義批判、保守思想や戦前回帰を刷り込まれたことにより、小林による右翼的な言説が生まれました。西部の言説を小林が俗流化し、その小林の言説の影響からネトウヨが生まれたのです。
2000年代の小林よしのりの言論の特徴といえば、反米・反新自由主義・反小泉政権でした。
小林による小泉政権批判は、彼の盟友でブレーンだった西部邁の受け売りでもありました。ただし、小林のブレーンだった西部邁は、本当に純粋な動機で反小泉政権の言論活動を行っていたのでしょうか。
なぜなら、西部邁は中曽根康弘や自民党の御用学者だった過去があるからです。リクルート事件の時に西部は中曽根康弘を擁護し、中曽根を追い詰めようとするマスコミや検察に批判的でした。
西部邁は太平洋戦争のことを「大東亜・太平洋戦争」と言い、肯定とも否定とも取れる歴史観の立場を取っています。あの中曽根康弘が昭和の戦争のことを、アメリカに対しては安全保障のために戦ったが、アジア諸国に対しては侵略だったと言っているのと似ています。
小泉内閣の成立以降、亀井静香を派閥会長とする志帥会(江藤・亀井派、亀井派)は非主流派に転落しました。初期の志帥会の最高顧問であったのは、派閥の古株であった中曽根康弘です。中曽根は2003年に小泉純一郎首相の圧力を受け、政界引退に追い込まれました。
小泉政権で志帥会が非主流派に転落したことに伴い、小泉純一郎と中曽根康弘の権力闘争が起こりました。中曽根の子分だった人たちが反小泉になったのは、親分の意向を受けていた可能性があるでしょう。あの西部邁もかつては中曽根の子分でした。西部邁の小泉批判は、かつての親分だった中曽根の意向を受けたものであった可能性を疑われてもおかしくありません。》(大林わるのりさん)
https://washiblogact3.seesaa.net/article/515747216.html
https://washiblogact3.seesaa.net/article/516005713.html
https://washiblogact3.seesaa.net/article/489556311.html
https://washiblogact3.seesaa.net/article/516932318.html
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西部邁は自らを「村はずれの狂人」などと称して孤高を気取り悦に入っていましたが、実際には大衆のオモチャ箱であるテレビの仕事を嬉々として受けていて、タレント知識人か知識人タレントかどっちか知らんぐらいの感じの文化人くずれというのが正当な評価なのではないでしょうか。
恥ずかしながら私も若い頃はそんな文化人くずれの著作を幾つも読んでいたクチで、今思えば実に無駄な読書体験であったなぁと自嘲気味に笑っているところであります。
さて、そんな西部邁が亡くなった途端に、西部の名前を自分の利得の為に利用する小林よしりん。
そのコスい小林よしりんを支持する泥鰌の群れの珍妙さを最後に指摘しておきましょう。
よしりんバンドLIVEの感想「女性が女性らくし可愛くあってくれるのなら、男性としては女性が辛いと思うような状況は作ってはならないと感じた」 | ゴー宣DOJO https://www.gosen-dojo.com/blog/56104/
《愛知県40代女性
私は二人の娘に恵まれた父親ですが、男の努力が、男尊女卑からの超克には必須である事、プライドなんか捨て切って、素敵と言える男になりたいと思います。》
「愛知県40代女性」が「二人の娘に恵まれた父親」で「素敵と言える男になりたい」とはどういうこと?
トランスジェンダー的なやつ?
それとも単なる女装癖の倒錯したヘンタイおじさんってこと?
ゴー宣泥鰌の群れについての謎は深まるばかりである。
この記事へのコメント
『田中清玄自伝』(ちくま文庫)の163ページから166ページにも書かれていますが、安保闘争のころの全学連の幹部たちは右翼の黒幕・田中清玄から活動資金をもらっていたそうです。
田中清玄は敗戦後にアメリカの諜報機関と接触していたことがあるため、CIAエージェント説がある人間です。もっとも、『田中清玄自伝』で田中は自らのCIAエージェント説を否定していますけどね。
東大在学中の西部邁が田中清玄から金をもらっていたかどうかは不明ですが、可能性としては当然あり得るでしょう。
西部が全学連時代に田中清玄から金をもらっていた疑惑や、後に中曽根康弘の御用学者となったことから分かることがあります。
つまり西部は政治性で動く人間であり、打算的で保身に長けた人間でもあったということです。彼はそういう人物であるため、実際は優れた道徳性や深い思想など持ち合わせていません。
そうなると、2000年代に親米・反米論争をしていた時の西部は、かつての親分であった中曽根の意向を受けて小泉批判やアメリカ批判をしていたのではないかという可能性をどうしても考えてしまいます。
当時の日本の政界では小泉と中曽根の権力闘争が起きていましたし、中曽根系の志帥会(亀井派)は反小泉でした。2000年代のころに小泉を批判していた前野徹や渡邉恒雄も中曽根の子分でした。
西部の子分として反米・反小泉を唱えていた当時の小林よしのりは、小泉と中曽根の権力闘争に巻き込まれていただけのピエロだったのかもしれません。
やっぱり西部が唱えていた反米保守の思想は、B層のガス抜きのための偽物でしかなかったのでしょうね。
9.11テロ賛美で右派陣営内で叩かれるようになった小林は、自分の立場を正当化するために盟友であった西部邁の主張をコピーして理論武装を図りました。だから、小林が唱えている反米保守としての思想も借り物でしかありません。
その小林の師匠であった西部は、かつては中曽根康弘の御用学者をしていたことがありました。親米保守の大物である中曽根に頭が上がらなかった時点で、西部が唱える反米保守の言説は偽物でしかありませんでした。
自称「反米保守」の小林や西部が考えている対米自立の手段は、親米保守が考えている対米自立の手段と大差がありません。小林や西部が唱えている対米自立の手段とは、親米保守の人たちと同じく「憲法改正しろ」「核武装しろ」ですからね。
昔から、小林の言論活動の特徴は俗情との結託を利用した逆張り言説であるため、彼の反米言説も逆張りで言っているだけです。
小林の逆張り言説とは、「強そうなものに吠えているわしが好き」というナルシシズムの要素も含まれています。だから小林の場合は、アメリカという強そうな大国に反抗するパフォーマンスを演じることで自分に酔っているだけです。
右派文化人だったころの小林は、右派陣営の人間で宗教右翼がケツ持ちでした。アメリカの手先として戦後体制を支えるために反共の防波堤であり続けてきたのが、右派陣営や宗教右翼の役割です。
アメリカの属国である戦後体制の守護者のくせに、できもしない戦後体制の打破を唱えることでガス抜きをしていたのが日本の自称反米右派です。石原慎太郎や西部邁や小林よしのりがそうでした。
つまり石原や西部や小林はアメリカの手先のくせに、対米自立の愛国者を演じてB層を騙してきた人間であったというわけです。西部の親分であった中曽根康弘も、アメリカの手先のくせに対米自立の愛国者のふりをしていた人間でした。
結局、小林の反米言説は精神論の域を出ておらず、読者がガス抜きをするための役割を果たしたに過ぎません。
>痛い目を見て学習したわけだな。
https://x.com/honda_ryoh88922
エルネスト金さんと公論したの?
教祖様も公論サポーターもやらないなら、きみがやるしかないよ。
犯人はこいつだなんかやる暇があったら鶴橋まで来て公論すべきだよ。教祖様も「外に出てないから考えがおかしくなるんだ」といったから実行しようよ。
君がこのブログを見てるなら、なぜそうなるかは僕のコメントを見たらわかるよね。
痛い目を見て学習したわけだな。
また、湾岸戦争で「金は出したが人は出さなかった」と日本がアメリカから非難されたということも、保守派・右派の人たちにトラウマを残しました。
湾岸トラウマやPKOの議論などで、日本による国際貢献が重要視される風潮が生まれました。これらの流れから、小沢一郎が唱えた「普通の国」論が支持され始めていきます。
『日本改造計画』を出版したころの小沢の主張は、新自由主義とネオコンの理論がベースになっていました。この『日本改造計画』のゴーストライター陣に加わった一人は、あの竹中平蔵です。
小沢の『日本改造計画』のベストセラー化は、日本の新自由主義化やネオコン化を促進するきっかけとなりました。『日本改造計画』で書かれたことは、橋本政権、小泉政権、維新の会、安倍政権の政策へとつながったと言えるでしょう。
(民主党代表になって以降の小沢は社民主義に路線転換しましたが、思想的な転向の経緯を説明して欲しいですね)
旧ゴー宣のころ小林よしのりは護憲派でリベラルでしたが、小沢一郎の改革案を支持していました。小林は差別問題を扱って弱者の味方を演じる一方で、マッチョイズム的な価値観も唱えていました。
「自分の現場でプロになれ」と主張する一方で、実力主義に基づく競争社会を肯定する旧ゴー宣時代の小林の言説は、新自由主義的な価値観とも親和性が高いものでした。
村山内閣(自社さ連立政権)の誕生は、社会党(後の社民党)を没落させる一因になりました。日米安保や自衛隊容認といった社会党の方針転換や、阪神大震災での村山内閣による初動の遅れなどで、社会党への失望が人々の間に生まれたでしょうね。
一方、小林よしのりは新ゴー宣で慰安婦問題を扱ってから、思想の右傾化が進み始めました。そして、1996年末に新しい歴史教科書をつくる会が結成され、翌97年に日本会議が生まれました。1998年には、小林の『戦争論』が宗教右翼のまとめ買いによってベストセラーとなっています。
1999年には匿名掲示板「2ちゃんねる」が生まれました。2ちゃんねるは2000年代以降は、ネトウヨを大量に生み出す役割を果たしました。ネトウヨたちの言説のフォーマットとなったのは、小林よしのりがゴー宣で唱えた主張でした。ただし、ネトウヨたちは小林の反米化には批判的でした。
また、1998年に起きた北朝鮮のミサイル発射実験や、翌99年の能登半島沖不審船事件は、北朝鮮に対する不安感を日本人にもたらしました。後に、小泉訪朝で北朝鮮による日本人拉致が事実と分かったことは、日本の右傾化を促進させる出来事となりました。
小渕内閣では国旗国歌法や周辺事態法が成立したりとか、保守色が強い政策も行われました。ちなみに、小渕恵三と森喜朗は日本会議国会議員懇談会のメンバーでした。
小渕首相が倒れて森政権が成立してからは、清和会が自民党で主流派となりました。森首相は「神の国」発言に見られるように、戦前回帰的な思想の持ち主でした。小林よしのりは、森の「神の国」発言を支持しています。
そして2001年の小泉政権の成立以降、日本の世論の右傾化は一層促進されていくことになります。親米右派的な小泉政権のもとでの社会の右傾化は、日本のアメリカへの属国化をさらに強めることとなりました。
中曽根のブレーンとなった知識人には、左翼から転向をして保守となった人も少なくありません。例えば、西部邁は東大入学後に共産主義者同盟(ブント)のメンバーとなり、東大自治会委員長として安保闘争に参加しました。
香山健一は東大在学中に全学連の委員長となり、後にブントの結成者として安保闘争に参加していました。また、佐藤誠三郎は、東大在学中は共産党員として学生運動に参加していました。
中曽根の回顧録『天地有情 五十年の戦後政治を語る』(文藝春秋、1996年)の聞き手となった歴史学者の伊藤隆も、東大在学中は全学連に参加していました。
さらに、中曽根の友人だった渡邉恒雄(ナベツネ)も、東大在学中は共産党の熱心な活動家でした。
中曽根康弘は、左翼から保守に転向した知識人を自分の御用学者として取り込むのがうまかったのです。中曽根はインテリで教養があり、国家観や歴史観や哲学を持っているように演じることに長けていました。
大学時代に左翼の学生運動に参加したものの幻滅して保守化した知識人の人たちには、頭が良くて自分の思想を持っているように見える中曽根が魅力的な人物として映ったのでしょうね。
大学時代にマルクスに騙された左翼崩れの知識人たちは、保守化してからは中曽根に騙されて利用されてしまったのです。
中曽根の元御用学者だった西部邁を師匠としている知識人は数え切れないほどいますが、ネトウヨの教祖となった小林よしのりもその一人です。小林は西部チルドレンであり、西部邁は中曽根チルドレンでもあるのです。
中曽根康弘はアメリカの手先のくせに、「私は敗戦後にアメリカへの復讐を何度も考えた」と語るなど、対米自立の愛国者のふりをするのがうまい人物でした。中曽根の御用学者だった西部邁や、西部の弟子だった小林よしのりが、大衆向けのガス抜きのために反米保守を演じているのとそっくりです。
西部邁の弟子である小林よしのりは、思想的には中曽根康弘の孫弟子であるとも言えなくもないでしょうね。
ただし、日本の右傾化は対外的な影響だけでなく、国内での世論操作によって起きたという影響もあるのです。その世論操作に加担したのが宗教右翼であり、彼らの手先となった右派の文化人たちでした。
小林よしのりは右派の主張を絵解き漫画とし、宗教右翼を組織票にして支持を集めました。ネトウヨの教祖となった小林のブレーンの一人が、盟友の西部邁です。
西部はテレビを通じて右派的な主張を広めましたし、正論大賞受賞者として右派の権威となった人物です。彼がメディアを利用して、日本の右傾化に与えた影響は大きいと言えるでしょう。
もちろん、対外的な危機が日本の周辺で起きていたことは事実でもありますし、冷戦終結以降の国内情勢や国際情勢の変化という影響も間違いなくあるでしょう。
日本の右派たちは対外的な危機を利用して、世論誘導によって支持を集めたとも言えます。しかし、右派の人たちが対外的な脅威を唱えたり国防の強化を訴えているのは、「日米同盟の強化」という名目で日本をアメリカの属国であり続けさせるためのものでもありました。
アメリカの属国化のまま改憲や国防の強化を行っても、日本はちゃんとした独立国になることはできません。この場合は下手をすると、アメリカが侵略戦争を始めた時に日本が参戦を強要される恐れだってあるのです。
戦後の日本で、アメリカの属国としての体制を支えるのが日本の右派陣営の役割でした。そして、彼らの政治運動の支持母体となったのが宗教右翼勢力でした。「日本を属国として反共の防波堤にする」というアメリカの目的と、親米反共を理念とする右派陣営や宗教右翼の目的は一致していました。
ニコニコ動画、YouTube、フェイスブック、ツイッターがネトウヨを増やすために果たした役割も大きいですが、それ以前には2ちゃんねるが出てきたことの影響も大きかったはずです。
インターネット上での右派的な言論も、宗教右翼の関係者が世論誘導のためにやっている可能性だってあるでしょう。菅野完によると、生長の家系の右派人脈は昔からインターネットによる世論誘導に目をつけていたそうです。
結局、日本の右傾化の流れは仕組まれて起きた部分も大きいのです。
小林氏らの言論についての評価を拝見しましたが、
過大評価なのではという印象を受けました。
小林氏や西部氏らの言論が日本の右傾化を促したとすれば、
それはそうした言論が問題となり受容される現実・
土壌が90年代以後の日本に増えていたためで
あったというのが正確ではないのでしょうか?
2001~2003年 同時多発テロ、イラク戦争、北朝鮮拉致問題
2005年 中国反日デモ
2006年 北朝鮮ミサイル発射実験
2010年 尖閣諸島中国漁船衝突事件
2014年 ロシアによるクリミア併合
2016年 トランプ大統領の誕生
2022年 ロシア=ウクライナ戦争
2024年 深圳日本人男子刺殺事件
2025年 第二次トランプ政権と関税戦争(米軍東アジア撤退?)
20??年 台湾有事?
この間、2007年にはyoutube、2008年にTwitter、
2010年代にスマートフォンが普及と合わさることで
国民の間で危機意識が強まったことが右派・国防言論への
人々の関心を強める帰結をもたらしたのはある種必然だったのでは
ないでしょうか?