鬼畜系露悪趣味から社会運動への道程

引き続き、大林わるのりさんによる小林分析のコメントを紹介します。

今回は薬害エイズや教科書問題など社会運動に入り込み、ゴー宣がルポマンガ化していったあたりのことについての分析をまとめます。

その前に、社会運動を飯のタネにする前のゴー宣についてザックリ説明しておきましょう。


初期ゴー宣は、日々机の前に座りっぱなしで社会との接点がほぼないマンガ家の立場からテレビや新聞で話題になったニュースについて素朴なツッコミを入れるというものでした。

ツッコミを入れるという行為自体には何の教養も必要としないので、インターネットが隅々まで行き渡った現在では誰でもが当たり前のように出来る程度のことです。あとはそのツッコミのセンスいかんでウケたりスベッたりするだけの話です。

そして、小林のツッコミはそれなりに受け入れられ、そこそこ話題になりました。ちなみにこの段階では私の周囲にまでは届いていませんでした。

連載していた週刊SPA!は今のような中高年向けエロ情報誌路線ではなく、20代の若者向けのカルチャー誌でありました。いわゆるサブカル青年オタク青年が主な読者層であり、そこに属さない層にはまったく届いていませんでした。

ともあれ、小林のツッコミスタイルはその辺りの層にウケて、発言内容はリベラル系インテリあたりに支持されていました。

90年代初頭といえば、ダウンタウンが全国区に台頭して来た頃であり、オブラートに包まずに本音を攻撃的にぶちまけるというスタイルが世の中に浸透し、より露悪的なもの、より鬼畜的なものが刺激的で最高だぜってな風潮になってきていたので、小林もその世間の流れに合わせる形で「わしこそ過激やぜ」と流行に乗ったわけです。

しかし、いざ露悪勝負になった時に小林は腰が引け、かと言って負けを認めたくはないので一般常識を盾にして、「より過激なもの」を非難するのでした。

小林自身が「茶化し」や「冷やかし」を芸風にして売れたというのに、他人が自分以上の「茶化し」や「冷やかし」をすると「茶々松はアカン」「価値相対主義はアカン」などと優等生発言をして、相手を「ワルモノ」にして論戦から逃げるのでした。

この辺りから小林は「社会正義」や「社会運動」を飯のタネにするようになります。

小林は「社会正義」や「社会運動」について一方では懐疑的である風を装ったり、批判的な物言いをしたりしながら、「でもわしの取り上げる社会運動は正しい。わしのやってることを茶化すのは許さん」という矛盾を抱えていました。

読者であった当時の私はこの矛盾をどうやって回収するのか常に気になっていましたが、小林はハナから回収するつもりはなかったようで、未だにその矛盾を積み重ね続け、その利息でもはや破産しているような状態である始末です。


《『ゴーマニズム宣言』のメッセージといえば「権威よ死ね」であり、小林は何か事があるたびに、自らを王様は裸だと叫ぶ少年になぞらえていました。

時代の空気を敏感に読み、大衆の気分を利用した逆張り発言によって世間の喝采を狙う手法です。小林の「権威よ死ね」「王様は裸だ」の本質は、俗情との結託を利用した逆張りでしかありません。

漫画で作者自身を美形の熱血キャラ風に描いて仰々しい表現をしていて、価値相対主義への批判もしているから読者は錯覚してしまいそうになりますが、小林の言説は基本的には冷笑と逆張りで成り立っています。

揚げ足取りを繰り返して一方的に論破宣言をする小林の言説もまたポストモダン的な価値相対主義の典型なのです。

「それはあなたの感想でしょ?」と言って相手を冷笑し、一方的に自分の言説を唱えて論破宣言をするひろゆきのやり方に似ています。

小林が生み出した「純粋まっすぐ君」という単語は、オウムにのめり込んだ当時の秀才を批判する意味では有効でしたが、一歩間違えれば正義感や真面目さを冷笑する考え方にもつながりかねない諸刃の剣の言葉にもなりかねません。

ただし、皮肉にも「純粋まっすぐ君」という揶揄は何かあるとすぐに運動にのめり込んでいった小林自身に当てはまっていたようです。

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薬害エイズ運動に関わった小林による市民運動批判は、当時は何かと注目されました。しかしながら、市民運動批判の言説自体が独り歩きをして、ネトウヨによる市民運動やボランティア自体への揶揄や否定につながったことも事実です。

現場で生きているのは庶民や労働者だけではなく、活動家の人たちも含まれるべきです。市民運動も社会での存在意義はあるのであり、運動家の人たちも彼らなりに現場で戦っているからです。

もっともゴー宣DOJOは、市民活動家の人たちの真面目な運動と違ってごっこ遊びの域を出ませんけどね。

初期の新ゴー宣で政府批判や官僚批判をする人たちに対して、小林がじゃあお前がやれるかと批判しているのも今思えば滑稽です。

政治家だったころの橋下徹が批判者に対して「文句を言うならお前が政治家になれ」と言って、異論を封じ込めた手口と似ています。小林や橋下のこの言説は、権力をチェックして批判するという民主主義社会での言論の役割そのものを否定する暴論です。

かつての小林は言説に社会への影響力があり、オピニオンリーダー扱いまでされていたため、世論のミスリードをもたらしてしまいました。露悪趣味と冷笑で成り立つ小林の言説は、当時の若者の価値観に悪影響を与えたと言えるでしょう。

戦争責任を追及する人たちが消費税批判をしていることを、偽善者と罵倒していたのも滑稽です。今思えば、当時の小林は歴史問題だけなく経済にも無知でした。言うまでもなく、小林による歴史問題の言説は右派の受け売りでした。また、消費税が経済にもたらす悪影響が論じられるようになった現在では、当時の小林の無知さが目立つばかりです。

小林は右傾化してからは尊皇派であることを強調するようになりました。しかし一方では、万世一系の否定や欠史八代説を認めるなど、皇室の解体につながる説をしきりに唱えています。表向きは尊皇を装いながら実際には皇室を軽視する態度をとっている、伝統を軽視しているくせに反共のタカ派である小林は伝統保守ではなくネオコンなのです。

反権威を気取っていたのに、右傾化してからは国家という権威におもねるようになりました。さらに、王様は裸だと叫ぶ少年を演じていたのに、年を取ってからは老害化して裸の王様になってしまいました。

小林はポピュリストそのものです。流行を警戒し熱狂を嫌い、大衆の暴走を警戒するという保守主義のあり方とは対極の人間が小林よしのりなのです。

新しい歴史教科書をつくる会を権威に逆らうかっこいい不良のように描いている描写も、今思えば滑稽です。「不良はかっこいい」という価値観自体が中二病そのものですし、小林は戦後体制に寄生しながら愛国ごっこをやっていただけでした。不良少年が学校という体制に寄生して反抗ごっこをしているのと同じく、小林自身も体制に寄生して反抗ごっこをしていた甘ったれだったのです。》(大林わるのりさん)

https://washiblogact3.seesaa.net/article/515600470.html


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この記事へのコメント

大林わるのり
2025年11月20日 18:00
90年代後半以降に小林よしのりが右傾化してしまった原因については、様々な理由があげられるでしょう。

例えば、呉智英・浅羽通明・大月隆寛といった『宝島』系人脈の影響で、冷笑系保守の価値観を植え付けられたことがそうです。また、薬害エイズ訴訟で運動団体と揉めた影響によって、左翼の人たちを憎むようになったこともそうです。

さらに、秘書金森の影響や右派陣営の知識人たちとの付き合いで洗脳されてしまったことや、組織票として頼るようになった宗教右翼の言説に影響を受けたことなどもそうです。

それらの要因だけではなく、中年になった小林が右傾化してしまったのは彼の生い立ちの影響も無視できないでしょう。

幼少期のころに喘息で苦しんでいた小林は、両親から虐待を受けて育ちました。母親への憎しみは小林が後に女性蔑視をこじらせる原因となり、父親への恐怖心と祖父への追慕の念は小林が後にファザコンをこじらせる原因になりました。

幼少期のころの小林一家は、母親がエゴイズムを貫く個人主義者であり、父親がマルクス主義を信奉する典型的な左翼でした。

ゴー宣を描いて政治にかぶれるようになった小林は、エゴイストの母親を戦後民主主義を体現する存在と考え、一方でマルクス主義者だった父親を戦後左翼を体現する存在と考えたのかもしれません。

つまり、中年になってからの小林の右傾化は、自分を虐待した両親の価値観に対する反発であったとも言えます。戦後民主主義者である母親や、戦後左翼であった父親に対する小林なりの反抗が、右傾化という答えであったのでしょう。それにしても遅すぎる反抗期です。

ちなみに、高校時代のころの小林は髪を伸ばして不良を気取っていたくせに、学校では本物の不良におびえ、家庭では両親に頭が上がりませんでした。

つくる会時代の小林が自分のことを、不良グループの構成員になぞらえて得意げになっていたことも納得がいきます。不良気取りのくせに実際はヘタレだった少年時代のコンプレックスを、小林は大人になってから解消しようとしたのでしょう。

さらに、小林は虐待のせいで両親に対しては屈折した感情を抱いていますが、母方の祖父に対しては追慕の念を持っている人間です。そうであるならば、右傾化していたころの小林が「わしは悪人となっても祖父を守る」と言っていたことの謎も解けてきます。

戦後的な価値観を体現していると見なした両親に対する反発と、戦前からの古き良き日本を受け継いでいると見なした祖父に対する敬愛は、小林の右傾化に心理的な影響を与えたのかもしれません。

小林の右傾化や後の反米化は、戦前戦中の日本に対する一方的な美化の感情が根底にあります。今は亡き大日本帝国と敬愛する母方の祖父をイメージとして重ね合わせた影響で、右派時代の小林は戦前戦中の日本を美化するようになったのでしょうね。

小林が中年になってから思想をこじらせるようになったのは、やはり子供のころの不幸な生い立ちが背景にあったのかもしれません。ただし、確かに小林は可哀想な過去を持つ人間ですが、だからと言って彼が言論人としてやったことは許されるものではありません。
大林わるのり
2025年08月30日 15:08
「自称保守」の正体とは?
https://www.gosen-dojo.com/blog/44099/
>【ゴー宣欄外名言 その10】
>保守の勢力が「運動」「行動」によってどんどんカルト集団化している。運動は恐ろしい。スローガンを叫びながら、単純化、原理主義化していく。『脱正義論』で「日常に帰れ!」と言ったセリフを、今度は保守の側で言ったら、その反応は14年前の薬害エイズ運動の終焉のときと全く同じだった。
>(WiLL2010.5)

「本家ゴーマニズム宣言」欄外でのこの文章が書かれたのは、2010年5月であるということに注目です。当時の小林よしのりは、皇位継承論争で女系天皇支持の立場に立ったせいで、男系天皇支持の知識人たちと論争することになりました。

そもそも右派陣営で起きた皇位継承論争は、生長の家が分裂したという影響があります。小林ら女系天皇支持が谷口雅宣派(教団の現執行部)であり、新田均ら男系天皇支持が谷口雅春派(日本会議、日本青年協議会)というわけです。

保守の勢力が「運動」「行動」によってどんどんカルト集団化していくというのは、小林が広告塔として新しい歴史教科書をつくる会がそうでしたね。そもそも、つくる会は宗教右翼が支持母体だったせいで、運動自体がカルト集団化していくのは必然でもありました。

しかしながら、皇位継承論争も右派系政治運動も宗教勢力が裏で絡んでいることについては、小林はなぜか告発しようとしません。右傾化してからの小林の著書は宗教右翼のまとめ買いによって売れたものですし、女系天皇支持など小林の言論活動は生長の家の意向を受けています。

小林の言論活動は宗教団体を支持母体にして成り立っていますから、彼は右派の人たちや右派系運動がカルトべったりであるということに触れることができないのです。小林が作ったゴー宣道場にも生長の家の人たちが潜り込みました。

新興宗教を支持母体にしたゴー宣道場は、「運動」「行動」によってどんどんカルト集団化していきました。「愛子天皇実現」のスローガンを叫ぶことで単純化、原理主義化していき、小林の著書をまとめ買いしてあちこちへ配っているカルト集団がゴー宣道場関係者です。

小林が2010年に本家ゴー宣の欄外で書いていた文章は、皮肉なことにゴー宣道場の現在の惨状に当てはまる内容となってしまいました。
大林わるのり
2025年08月08日 16:56
『SAPIO』が創刊されて90年代に入ってからどういう動きがあったのか、検証する必要があります。

小学館の国際情報誌『SAPIO』は、1989年5月に創刊されました。初期の『SAPIO』はビジネスマンを読者層としており、落合信彦、大前研一、邱永漢を連載陣にしていました。90年代前半のころの『SAPIO』は、浅田彰と知識人たちの対談が掲載されるなどリベラルな論調の雑誌でした。

バブル期のころの『SAPIO』は、雑誌でアメリカ批判の特集をよく行っていました。経済大国となった日本がアメリカからジャパンバッシングを受けていたという、当時の世相の影響がありました。

右傾化して以降の『SAPIO』は反米保守のメディアとなりますが、同誌は当初からアメリカに批判的な姿勢を示していました。後に『SAPIO』の看板作家となった小林よしのりも、2001年以降は反米化していましたね。

バブル崩壊後の『SAPIO』は、雑誌上で韓国批判の特集が徐々に増え始めていきました。『SAPIO』での嫌韓の流れのきっかけを作ったのは、西尾幹二と井沢元彦です。

1991年、韓国の政治学者・尹正錫と西尾幹二は『SAPIO』誌上で、日本が軍事大国化して韓国の脅威となるか否かについて論争を行いました。

また、井沢元彦は、『恨の法廷』(日本経済新聞社、1991年)という韓国の文化に批判的な内容の小説を書きました。これにより『SAPIO』では、井沢と韓国側の知識人による論争が行われています。

『SAPIO』が反日国家として敵扱いしている国は、バブル崩壊後はアメリカから韓国へとシフトしていったのです。『SAPIO』では韓国批判の特集が目立ち始めましたが、90年代前半のころは掲載される記事は両論併記による中立的な内容を心がけていました。

1995年、『SPA!』から『SAPIO』に移籍してきた小林よしのりが、「新ゴーマニズム宣言」の連載を始めました。小林は薬害エイズ事件後に市民運動批判を行い、慰安婦問題を扱うようになってから本格的に右傾化しました。

小林が新ゴー宣を連載していた『SAPIO』もまた、雑誌上で右派路線を鮮明に打ち出すようになっていきます。

右傾化してからの小林は、1997年に井沢元彦との対談本『朝日新聞の正義』(小学館)を出版しています。『SAPIO』では、1993年以降は井沢が朝日新聞叩きの急先鋒の役割を果たしていました。

小林が慰安婦問題を題材にしてから右傾化したのは、彼が連載していた『SAPIO』が韓国批判を熱心に行っていた雑誌であったことの影響もあるでしょう。

「ブレーンあってのゴー宣」というのが小林の言論の実態だったのなら、『SAPIO』編集部も小林のブレーンとして影響力を持っていた可能性は大いにあるでしょう。
大林わるのり
2025年08月07日 13:39
小林よしのりの『戦争論』では、「南の島に雪が降る」という話が収録されています。小林信者たちは、「南の島に雪が降る」こそが『戦争論』の中核のテーマであると強調しています。

しかし、「南の島に雪が降る」に感動して、この話だけで日本の太平洋戦争を理解してしまうのは危険と言えます。「南の島に雪が降る」で描かれた小林の祖父の過去話は、あくまでも浪花節的なエピソードであり、当時の日本の戦争のごく一部分に過ぎないからです。

戦争に従軍した兵士たちや、国内にいた民間人たちに様々な犠牲があったことも事実です。また、日本が国策を誤り続けたせいで愚かな戦争をしてしまい、敗戦に至ったことも事実なのです。「南の島に雪が降る」では、これらの事実が描かれていません。

戦争に行った祖父たちを「すごいと思う」と小林は称えていますが、彼が言う「すごい」という評価には、戦争の負の側面や犠牲というものが含まれていません。国や軍が間違った戦争をした上に、多くの尊い人命が失われたという事実を小林は見落としています。

それだけではなく、太平洋戦争中のころの小林の祖父の過去話を紹介するのはいいとして、そこから「祖父たちを守る」という理由で日本の十五年戦争の正当化に走るのは、あまりにも論理が飛躍し過ぎています。

小林はオウム事件や薬害エイズ事件を経て、人は個人を超えなければならない時があることが分かったと言います。

オウム事件や薬害エイズ事件と関わり、「自分は正義のために巨悪と戦っている」と思い込んだ小林は、アメリカと戦う日本軍の兵士と自分を重ね合わせて自己陶酔してしまったのです。まさに純粋まっすぐ君そのものです。

人は個人を超えなければならない時があるという小林の理屈は、国が始めた戦争のために個人が犠牲になることを美化するというとんでもない詭弁を生み出してしまいました。

結局、小林が描いた「南の島に雪が降る」という浪花節的なエピソードは、戦争を美化して個人が公(=国家)のために犠牲になることを正当化するために利用されてしまいました。

浪花節的なエピソードに自己陶酔することによって、客観的な事実を見ようとしなかったり、批判精神を放棄したりするのは非常に危ういのです。『戦争論』に収録されている「南の島に雪が降る」は、無知でお人よしな読者を罠にはめるための落とし穴でした。
大林わるのり
2025年07月17日 14:08
新しい歴史教科書をつくる会の歩みは、内ゲバの繰り返しと言ってもいいものでした。

神経症で療養していた大月隆寛は、つくる会会長の西尾幹二によって事務局長を解任されました。大月は左翼を揶揄する冷笑右派の立場でしたが、つくる会に参加している他の学者たちや盟友の小林よしのりのように戦前回帰的な民族系右派になることができませんでした。

歴史教科書運動の右傾化に違和感を持たないつくる会幹部たちと、同会の右傾化の流れを歓迎している支持母体の宗教右翼からすれば、大月は邪魔者に見えたでしょう。

また、大月がつくる会のシンポジウムに「と学会」から原田実を呼ぼうとしたり、或いはイベントとして餅まきを行うなど、つくる会のイデオロギーとはそぐわない活動を続けたことも同会で問題視させれました。

結局大月は、つくる会が右傾化していく流れについていくことができなかったのです。つくる会退会後の大月は、小林よしのりが『戦争論』で大東亜戦争肯定論を唱えたことに批判的でした。

また、つくる会副会長だった濤川栄太は、藤岡信勝と対立した上に小林よしのりとも揉めて同会をやめました。濤川塾を主宰する濤川と、自由主義史観研究会を主宰する藤岡による勢力争いを原因とする対立でした。

新ゴー宣での内情暴露は、小林が感情に任せて描いたものなのでしょうけど、ガス抜きの役割を果たした部分もあったのでしょう。この時点では小林はつくる会を退会していませんでしたし、歴史教科書運動ではまだ広告塔であり続けていましたからね。

2001年後半から2002年前半のころは、9.11の評価を巡って反米の立場をとっていた小林よしのりと西部邁がつくる会をやめました。

親米・親イスラエルだったキリストの幕屋は、反米の立場に立つ小林や西部に対して批判的でした。何よりも、イスラム過激派による9.11テロを小林が肯定したことは、キリストの幕屋や親米右派に問題視されました。

小林によるテロ賛美は確かに問題ですが、つくる会の幹部たちがキリストの幕屋に配慮したという事実もあります。つくる会の各地の支部で活動家となっていたのは、キリストの幕屋の信者たちでしたからね。

小林や西部は反米であるとともに、戦前回帰的な右派でもありました。小林は反米化したもの、宗教右翼という組織票とは完全に手を切ることができていなかったのです。おそらく、西部もそうでしょう。ちなみに西部邁は反米保守の立場をとっていますが、かつての彼は中曽根康弘の御用学者でした。

そして、生長の家原理主義者たちによるつくる会乗っ取り騒動が起こりました。生長の家原理主義者たちにつくる会を追い出された西尾幹二は、ブログや著書で一連の騒動の内部告発を行いました。

歴史教科書運動は、藤岡信勝らの新しい歴史教科書をつくる会と、日本会議の息のかかった日本教育再生機構(教科書改善の会)に分裂したのです。

日本教育再生機構(教科書改善の会)が生長の家原理主義者たちなど宗教右翼の息がかかっているのは言うまでもありません。しかし、つくる会の方も、藤岡信勝が世界日報と付き合いを持つなど宗教右翼との関係は完全には切れていないのです。

以上の流れを見れば分かりますが、つくる会では内ゲバがこれでもかと繰り返されてきました。
大林わるのり
2025年07月16日 13:58
新しい歴史教科書をつくる会を退会した後の小林よしのりは、徐々に本の売り上げが落ちて行きました。小林が組織票として頼っていた宗教右翼が、彼の著書のまとめ買いに以前ほど積極的ではなくなったからです。

しかし、慰安婦問題から歴史教科書問題に関わっていたころに小林が確立した「右派的な主張の絵解き漫画」というやり方は、2000年代の右派陣営に利用されることとなりました。

「右派的な主張の絵解き漫画」を出版すれば本が売れる、と右派陣営の人たちや右派系出版社の人たちは考えたのでしょう。または、「右派的な主張の絵解き漫画」を出版すれば宗教右翼の関係者が買ってくれる、という目論みも右派陣営の人たちや右派系出版社の人たちにあったのでしょうね。

これにより、2000年代の日本では小林のゴー宣以外でも「右派的な主張の絵解き漫画」が目立つようになっていきます。

そのきっかけは、李友情『マンガ金正日入門』(李英和 訳・監修、飛鳥新社、2003年)のベストセラー化と言っていいでしょう。この漫画は金正日や北朝鮮について解説した学習漫画であり、右派的な言説を強調した漫画ではありませんでした。

ただし、『マンガ金正日入門』を出版した飛鳥新社は、右派系の著書の出版を積極的に行っていることで有名です。飛鳥新社は、当時の日本で話題となっていた北朝鮮問題で本を売ることを画策したのでしょう。

『マンガ金正日入門』のベストセラー化以降、「右派的な主張の絵解き漫画」は次々と出版されていきました。

山野車輪『マンガ嫌韓流』(2005年、晋遊舎)、黄文雄・ジョージ秋山『マンガ中国入門』(2005年、飛鳥新社)、藤岡信勝・自由主義史観研究会・ダイナミックプロダクション『マンガ教科書が教えない歴史(普及版)』(2005年、扶桑社)、井沢元彦・波多野秀行『そして中国の崩壊が始まる』(2006年、飛鳥新社)、渡部昇一・こやす珠世『マンガ皇室入門』(2006年、飛鳥新社)、大和撫吉『マンガ日狂組の教室』(2007年、晋遊舎)、渡部昇一・水木繁『渡部昇一のマンガ昭和史』(2007年、宝島社)、山野車輪『マンガ嫌中国流』(2008年、晋遊舎)などがそうです。

特に、山野車輪の『マンガ嫌韓流』シリーズは嫌韓本ブームの火付け役となり、2000年代のネトウヨに大きな影響を与えました。小林よしのりをネトウヨの父と見なすなら、山野車輪はネトウヨの母と言えるでしょう。

『マンガ嫌韓流』は2ちゃんねるで広まった言説を本の情報源にしており、在日特権の存在という陰謀論を主張していました。右派的な立場からの嫌韓ブームや在日陰謀論がネトウヨに広まったことは、やがて桜井誠による在特会の結成へとつながっていきます。

ゴー宣以外で右派系の絵解き漫画が雨後の筍のように登場し出したころ、小林よしのりはこれらの現象を快く思っていませんでした。わしのゴー宣はこれらの絵解き漫画とは違う、と小林はゴー宣・暫で言っていました。

しかし、右傾化して宗教右翼の組織票頼みとなった小林のゴー宣は、単なる絵解き漫画となり果てていました。だから、ゴー宣のエピゴーネンというべき右派系の絵解き漫画と内容もやっていることも大差がなかったのです。

「わしが独壇場になっている右派向け言論漫画という市場で、自分以外のライバルと何人も競争するのはまずい。このままではわしの本の売り上げに関わる」というのが小林の本音だったのかもしれません。

小林よしのりは、右派系の絵解き漫画による愛国ビジネスという商売モデルを確立しました。しかし皮肉なことに、彼が作ったビジネスモデルは右派陣営に利用され、多くの人間に真似されてしまったのです。
もつ焼き屋の娘
2025年06月30日 07:09
大林わるのり=わしおやんwwwww
大林わるのり
2025年06月29日 09:42
露悪趣味を狙った初期ゴー宣のころの小林と、不良に憧れていたころの高校時代の小林は、私にはなぜか重なって見えました。そうです、旧ゴー宣の1巻や『戦争論』で紹介されていたあのエピソードを思い出しました。

高校時代のころの小林は、髪をロン毛にしていて不良たちにシンパシーを感じていました。しかし、全校集会で校則の自由化を訴えた小林は不良にヤジられてしまいます。

以降、小林は学校の中で不良たちになめられる存在になってしまいました。彼は、自分がシンパシーを感じていた不良というものの正体は、学校や教師に寄生して反抗ごっこをしていただけだったとやっと気付いたのです。

髪を伸ばして不良を気取っていたはずの小林は、本物の不良が喧嘩をしている場面では脅えることでせいいっぱいでした。

世間に迎合して露悪趣味で受けを狙いながら、露悪勝負になった時に腰が引ける旧ゴー宣時代の小林は、高校時代のころからまるで変わっていません。

つくる会に参加していたころの小林は、右派系の学者たちにシンパシーを感じていました。当時の小林は、右派のことを左翼に汚染された戦後体制や自虐史観と戦う正義の味方と思い込んでいたようです。

つくる会時代の小林は、新ゴー宣の作中で自分を体制に逆らう不良になぞらえていました。しかし、小林が憧れていた右派の人たちは、戦後体制に寄生して宗教右翼の支援を受けながら愛国ごっこをしていただけでした。もちろん、小林もそうです。

校則の自由化を訴えて全校集会で不良にヤジられた高校時代と同じく、反米を唱えたら戦争論2シンポジウムで活動家にヤジられてしまいました。

つくる会時代の小林は、アメリカの属国としての戦後体制を支えている右派陣営に迎合して本が売れていました。しかし、9.11以降の小林は、反米愛国が流行りであると読み間違えて右派陣営のメインストリームから外れてしまいます。

そうなった時に小林は、「親米ポチはアカン」「政治の前に思想が屈するのはアカン」と優等生発言をして、相手を「ワルモノ」にしてつくる会の運動から逃げ出しました。

「茶化し」や「冷やかし」を芸風にして売れたのに、より露悪的なものが登場すると「茶々松はアカン」「価値相対主義はアカン」と優等生発言をして、論戦から逃げた旧ゴー宣のころとそっくりですね。

露悪趣味で売っていた旧ゴー宣時代のころも、右派路線で売っていたつくる会時代のころも顛末は似ています。結局、小林は不良に憧れるヘタレだった高校時代から成長できていなかったようですね。