時浦兼先生に捧げるバラード
喘息だったが今日、完治した。 | ゴー宣DOJO https://www.gosen-dojo.com/blog/52837/
《カンヅメの最中から喘息を発症していて、ようやく今日、すっかり治った。》
《喘息のようだと気づき、ガスを飲みながら抑えていたが、今日になってすっかり治ったと気づいた。》
前にも指摘したことですが、小林よしりんは70過ぎの爺さんでありながら、「完治」という言葉の意味を理解していないようです。
喘息治療薬を「ガス」と呼ぶ馬鹿も他にはいません。確かに吸入器はガスの圧力で薬剤を噴射しますが、吸い込むのは薬剤でありガスではありません。
しかし小林お爺ちゃんは子供の頃から老齢期を迎えた今の今まで「ガスを吸引している」と思っていたようで、どんだけマヌケ野郎なんでしょうか。
もしかして生配信などでいつも興奮状態で異様な言動を繰り返しているのは、マジでガスパンして幻覚、幻聴、妄想の症状を引き起こした結果なのですか?
そんなマヌケな爺さんと長い間そばで接していながら、軽蔑することなく尊崇し続けているヘドロ男がいることを皆さんはご存知でしょうか。
そう、Boy Meets Girlマンガを得意とする我らが時浦兼先生こそがそのヘドロです。
https://x.com/fxpcek/status/1752893065336070456?s=46&t=KtUK2XEOGqno6mJtKNAi8A
時浦兼先生は次のように述懐しています。
さらに秋篠宮殿下「いじめ」発言に思うこと。 | ゴー宣DOJO https://www.gosen-dojo.com/blog/51273/
《私は小中学校時代にいじめを受けていた北海道某市に、もう40年近く行っていません。
おそらく今後も一生行かないと思います。
私はいずれ北海道某市から出ていくことを希望としていじめに耐え抜いて、そうして東京に出てきて、たまたまよしりん先生に拾われたという最大の幸運があって、今日まで生きてきました。》
僕が「世間」を嫌う理由 | ゴー宣DOJO https://www.gosen-dojo.com/blog/15319/
《僕は小学4年の2学期から中学卒業まで、ずっとイジメを受けていました。
このイジメは、僕が高校に進学し、小中学校の通学区という世間から解放された途端に、嘘のように消え失せたのでした。
この経験から、僕は「世間」が大嫌いになりました。
大学に進学して上京すると、今度は「世間」に影響されない仕事として、漫画家になることしか考えませんでした。
いま思うと恥ずかしい限りですが、自分に漫画の才能があるのかとか、漫画で表現したいことがあるのかということは、二の次でした。
それで大学卒業間際に辛うじて「藤子不二雄賞」の佳作に滑り込んだものの、後が続かずに途方に暮れていたところを、奇跡的な幸運で小林よしのり先生に拾われたのでした。
その頃の僕は対人恐怖症のような状態で、マトモに人とも話せない有様だったのですが、よしりん先生には仕事を通して精神的リハビリのようなことまでしていただき、そして「世間」に左右されることなどない人間関係ができて、おかげさまで現在の私があります。》



時浦先生の述懐ブログを読むと、オウム真理教の最高幹部であった村井秀夫のことを思い出してしまいます。
社会を知らないまま、おかしな指導者にやりがい搾取され、捨て駒として処理されてしまう哀しき存在。
マンガを描く才能云々はハタチそこそこの青年期のみで決定づけられるわけではありません。
ナニワ金融道の青木雄二先生は45歳の時にプロデビューしていますし、齋藤なずな先生やハン角斉先生も遅咲きですし中原とほる先生は81歳で新人漫画賞を受賞しています。
77歳の漫画家、デビューは40歳。高齢者の団地暮らしをテーマにした作品を描く理由 | ESSEonline(エッセ オンライン)https://esse-online.jp/articles/-/26354
https://toyokeizai.net/articles/-/825370?display=b
それなのに、何故に時浦兼先生は20代の道半ばでマンガ家になる夢を諦めてしまったのでしょうか。
今日、私は丸善で「平和の国の島崎へ」8巻を購入し、帰宅して早速読み始めたのですが、8巻冒頭のエピソードで手を止めて涙ぐみ、時浦兼先生の挫折について胸を痛めてしまいました。
島崎8巻のそのエピソードをざっくり説明すると、群馬県の高崎市近くに住む20代の男がマンガ誌の新人賞を受賞するのですが、親も病気がちで、世話になっている工場(こうば)の社長には「マンガとかにいつまでも夢中になってないで大人の男の嗜みを身につけろよ」などと揶揄まじりにハッパをかけられ、マンガ家になる夢を諦めることこそが現実的であり、地に足がついた正しくあるべき道であるかのように誘導されるわけですが、果たして…



という内容で、時浦兼先生は間違いなく身につまされる物語であり、本来自分がそうあるべきであった、ありえたかもしれないもう一つの未来を描かれていることに泣き崩れることでしょう。
時浦兼先生必読のマンガですので、是非とも明日書店に走ってみてはいかがでしょうか。
時浦兼先生は藤子不二雄賞を受賞した際に次のように喜びのメッセージを残しています。
《幼い頃、藤子先生や手塚先生のマンガに感動して以来、いちずに、マンガ家めざして描き続けてきました。受賞できて、ほんっとにうれしいです‼︎ 今後も、まんが道の終わりなきゴールをめざして、夢を追い情熱を傾けて、一歩一歩あるいてゆきます‼︎ よろしくご支援ください‼︎》

時浦兼先生は初めてマンガ賞を受賞した時に「終わりなきゴールを目指して、険しいまんが道を一歩一歩あるいてゆく」と藤子不二雄の両先生に誓った筈なのに、コロコロの編集者に勧められ、マンガ家修行の一環として「よしりん企画」にアシスタントに入ってしまったのが奇跡的な不幸の始まりだったのではと思います。
たとえば、よしりん企画にアシのバイトとして数ヶ月通い、そのあとに河合じゅんじ先生や沢田ユキオ先生や徳田ザウルス先生などのアシスタントを経験してマンガ家としての基礎を学んでいれば、コロコロ作家としてデビューするという未来もあり得たでしょうし、たとえ挫折したとしてもその挑戦したという実績は必ず将来の財産になっていたことでしょう。
それなのに、小林は時浦のその夢を鼻で笑い、「わしの所の専属アシになれば安定した収入を得られるばい」との甘言で騙したのでしょうか?
時浦先生はいつ己を捨てたのでしょうか?
時浦先生は小林よしりんが提示した「楽な道のり」を選択したことに後悔はないようですが、何故に「険しい道の歩き方」を学ぼうとしなかったのでしょうか?

険しい道の途上、道半ばで倒れたとしても前のめりに倒れたのならば本望だと、まだ夢を見ていた時の時浦先生ならばそう思った筈でしょう。
少年の頃から「いちずにマンガ家めざして描き続けてきた」のに、いつ己を捨てたのですか?
驚きだよ。悲しいことだよ。

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