小林よしのり氏が読み解く『ドラゴンボール』の秘密。戦闘漫画に潜む無意識と「鳥山明の戦争論」
ゴー宣道場では馬鹿とアホンダラの天下一武道会が毎日開催されている有り様であり、やはり人間は少しでも頭が良くなるために日々研鑽し勉学に励んでいくことを意識していかなければ、あの連中のような愚か者になってしまうのだと身が引き締まる思いです。
そのことを改めて気づかせてくれるゴー宣道場には感謝申し上げます。
日本文化を語った本でこれ以上のものはない | ゴー宣DOJO https://www.gosen-dojo.com/blog/45910/
《以前、文化を比較する本を読んだことがあります。日本文化との比較でした。文章のみで文化を語ろうとすると、どうしてもイメージできない部分があり、日本文化ですら文章に書かれていることを想像しながら読むのは難しかったです。》
《『日本人論』を読んで、文化を語るうえで、こんなにもわかりやすい本があるのかと、ものすごく驚きました。論と先生がイメージする絵が文化をこんなにもわかりやすく伝えてくれるなんて。》
《漫画に描かれたシーンを見れば、日本人なら感覚的に瞬時に理解してしまうでしょう。写真を張り付けるという方法もあるでしょうが、それではなんとなくは伝わるかもしれませんが、一瞬にして納得させてしまうこの先生の漫画、描写がただただすごいです。》
《世界では「多様性」という言葉がトレンドですが、多様性どころか、一つの考えを絶対視するあまり、ポリコレが進みすぎて人々は自由を失い閉塞するだけ。》
《私も日本文化の寛容さ、多様性を守りたい。》
これは総合Pもん子による小林マンガ『日本人論』の感想文の一部ですが、これを道場公式サイトにて一般公開しているのは何のつもりなのでしょうか?
いわゆるアナモチ構文と呼ばれる類の「本人は何か高尚なことを言っている気になっているが、さも論じている風を装っているせいなのか非常に読みづらく、文意も伝わりにくい言い回しをして己のバカさ加減を晒す珍文」というやつです。
文化を比較する本ってなんやねん。
「日本文化との比較でした」って、ナニと日本文化を比較しているのかな?
サクッと本のタイトルを紹介すれば良いだけの話なのにそれをしないのはそんな本は存在しないし、存在しないのだから読んでもいないのでしょう。
そんな読んでもいない「比較論」について、文章のみの本だから難しい。マンガで説明されないと理解が追いつかない。絵解きならわかりやすい。だから『日本人論』はすごいと、総合Pもん子は言いたいようですが、「論と先生がイメージする絵」って、フレーズが最高です。小林読者の知的レベルがよく分かります。
このマヌケな感想文の最後に多様性について書いていますが、これは時浦兼に対する痛烈な皮肉になっていて笑います。時浦兼というより、時浦に指示を出している小林よしりんへの皮肉ですが。
『ゴー宣』は「バトル漫画」か? | ゴー宣DOJO https://www.gosen-dojo.com/blog/46006/
《ライジングVol.498の「鳥山明の戦闘漫画に敬意を表する」をちゃんと読んだのでしょうか?
その前に、ゴー宣のどこを読んでいるのでしょうか?
よしりん先生が、「戦闘漫画は嫌いだが格闘漫画は好きだ」として、「戦闘漫画」と「格闘漫画」を分けて書いている意味を考えなかったのでしょうか?
じゃあ、『はじめの一歩』も『あしたのジョー』も『ドラゴンボール』と一緒ということになるのでしょうか?》
《格闘漫画は、そうやって修業が描かれることを通して、人間の成長とか、精神性とかが描かれるのです。戦闘漫画は、人間が描かれず、ただ強くなるのです。だから飽きるのです。
確かに格闘漫画にも戦闘漫画にもバトルは描かれます。
しかし格闘漫画はバトルを通して人間が描かれるのに対して、戦闘漫画は人間が描かれず、バトルだけが描かれるのです。
バトル「を通して、テーマを描く」のが格闘漫画。
バトル「だけを」描くのが戦闘漫画。と言ってもいいでしょう。
確かに『ゴー宣』はずっと戦ってきたし、これからも戦っていくでしょう。でも、『ゴー宣』はバトル「だけを」描いてきた漫画ですか?
ゴー宣の戦いは、単に戦いのための戦いだったのでしょうか?
「何のために」戦っていたか、それこそが最も重要なのではありませんか?
「バトルがあるから一緒」だなんて、そこまで表層的なことを言って、それに誰もツッコミを入れずに、みんなで盛り上がっている様子を見て、私は愕然としてしまいました。》
時浦は自分が書いたライジングの記事を理解されなかったとご立腹の様子ですが、絵に描いたような「一つの考えを絶対視するあまり、ポリコレが進みすぎて人々は自由を失い閉塞するだけ」を見事に体現していて笑いが止まりません。
「僕が考えた最高のバトル漫画の定義」を披露するのは勝手ですが、それを当然のように他人に押し付けるのは見苦しいにもほどがあります。
時浦は少年ジャンプに何の恨みがあるのか知りませんが、「ジャンプのバトル漫画は人間が描かれていない」と主張し、だから浅はかであり、それに比べて小林よしりん先生はしっかりテーマを描いているから素晴らしい。讃えよ鉄カブト! と言って、多様な感想を許しません。
そもそも「ゴー宣はバトルだけを描いてきた」なんて誰も言ってもいない言いがかりをつけて、愛読者たちが集まって感想会を楽しんでいることにさえ難癖をつけるのですから見ていられません。
それにしても鳥山明のドラゴンボールを含むジャンプのバトル漫画について、「人間が描かれず、バトルだけが描かれる」などと憎々しげに軽んじるのは何故なのでしょうか?
もしかして時浦兼は少年ジャンプの手塚賞やホップ☆ステップ賞に投稿したもののまるで相手にされず、自分を歯牙にもかけないジャンプ編集への積年の恨みが今ここで爆発し、小林名義のライジングの記事で発散しているということで正解でしょうか?
時浦兼は是非答え合わせをよろしく!
日本中の少年少女たちが夢中になって読んだバトル漫画について「人間が描かれず、バトルだけが描かれる」と評するマンガ家アシスタントの認識って驚きだし悲しいことだよ。
多くの少年少女たちは魅力溢れるキャラクターたちに感情移入して物語に没入し、バトルの行方を楽しんでいたのではないでしょうか?
強さのインフレを起こす長期連載のバトル漫画についての功罪については散々論じられてきましたし、今後も論じられるでしょう。
また、鳥山明先生がドラゴンボールを長期連載したことで疲弊したという話や、もし無理をさせずにもっと早くに連載を終わらせていたならば、また別の傑作長編マンガが生まれていたかもしれないという話などもよく見聞きする話であります。
かくいう私も鳥山先生の短編の巧さや面白さが大好物であったのでドラゴンボールはフリーザ編で終わらせて、もっと短編を描いて欲しいなどと友人たちと語り合ったものですが、だからといってバトル漫画が安易なものであるとも思いませんし、人間が描かれていないなどとしたり顔をするマヌケは論外であると思っています。
そんな敗残者であるマヌケのジャンプ憎しで書き殴られた陳腐な鳥山明論やバトル漫画論など読むに値しないものであります。それは無料部分だけでも充分わかりますが、時浦によるライジング記事の有料部分について以下の報告がありました。
《小林おじいちゃんや時浦は敬意という言葉の意味を知らないんですかね。
戦闘漫画にしたら必ず人気が上がるって。まるで誰(わし)でも鳥山明になれると言わんばかり。
もうこの時点で不敬かつタイトル詐欺罪なんですが、そのあと更に「ドラゴンボールは鳥山明版・戦争論。鳥山を褒めてわしを褒めない大衆は頭おかしい」と続き、最後は「おぼっちゃまくんがドラゴンクエストのアニメを打ち切りに追い込んだ。わしすごい」で締めるという。こんな嫉妬にまみれた醜悪な追悼文を読めるのは小林よしのりライジングだけ!
小林よしのり氏が読み解く『ドラゴンボール』の秘密。
戦闘漫画に潜む無意識と「鳥山明の戦争論」
https://www.mag2.com/p/news/595786
まず「人気が伸び悩んだため、路線を変更して徹底した戦闘漫画にした」のなら無自覚じゃないし、史実という原作付きの戦争論を非難してる人とフィクションの娯楽漫画であるドラゴンボールを絶賛してる人は同じじゃないし、そもそも沖縄の平和ガイド(左翼)の女性はドラゴンボールのアニメを好戦的だと非難していたって自分で書いてただろうがボケ爺ってのは置いといて、ドラゴンボールって基本的に防衛戦争というか正当防衛ですよね。
悟空にそういった意識は薄いにせよ構造的には世界征服を企む悪と正義の戦いで、正義は必ず勝ち、敗れた悪の一部は改心・転生して正義の味方となり(元を正せば悟空自身が地球を侵略しに来た悪の宇宙人である)死者や壊れた街はほぼ全て元通りになる。ある意味で鬼滅の刃より慈しい鬼退治。
戦闘民族サイヤ人の父と、学問を重視する地球人の子育てママの間に生まれた悟飯は、本能(猿)と理性(人間)のハーフとも言える…かどうかは分かりませんが、戦いを嫌いながらも悪の非道に怒り「地球の平和を守る」という少年の双肩には重すぎる使命を背負って強大な悪に立ち向かう。
週刊少年ジャンプという読者の人気をかけて争う天下一漫画会でコテンパンにされて逃げ出した小林おじいちゃんと入れ替わるようにして現れた鳥山先生は悟空よりも悟飯に近く、誰よりも強い力を持ちながら戦いを好まず(というかギャグの方がお好き?)しかし地球の皆の期待を背負って最期まで戦い抜いてくれた。
鳥山先生が「好戦的な漫画家」と言われることなどないのも、ドラゴンボールが「勇気を与えてくれた」と称賛されるのも全くおかしなことじゃない。逆に
“国民栄誉賞なんて、手塚治虫ですらもらっていない。(中略)そんな「反戦漫画家」だったともいえる手塚に国民栄誉賞を与えず、「好戦漫画家」だった鳥山に与えようというのなら、もう日本は、嘘でも建前でも「平和国家」だなんて言ってはいけない。速やかに憲法9条を改正して、軍隊を作らなければならない。”
などと言い出す人間は頭がおかしい。》(シチューせんべつさん)
https://washiblogact3.seesaa.net/article/502804395.html
シチューせんべつさんの報告によってMAG2NEWSというサイトで時浦の記事の全文が公開されているのを知り早速読んでみましたが、まさに鳥山明先生への敬意なんて微塵もない酷い内容で呆れました。
どうやら次回も鳥山先生について記事にするようですが、恥の上塗りになること必定でしょう。
とにかく「鳥山明より小林よしのりの方がマンガ家として優れている」と必死になっていますが、それについては吉田豪さんの反応がすべてを物語っているのではないでしょうか。
https://www.youtube.com/live/ViByzTDLgeY?si=vvFhz8hE8fXU_4mD
噂のワイドショーで、その小林の認知の歪みについて吉田豪さんが呆れ顔をしていた。
上に貼った動画の49:00〜再生してみよう!
https://iboken.amebaownd.com/posts/52448984/
時浦兼(小林よしりん)は記事の中で、「わしはそういう漫画があること自体が悪いとは思っていない。 お好きな人はどうぞというだけだ。」と書いていますが、それと同じで、「鳥山よりわしの方が凄い!」と思うこと自体は悪いことではないですし、思うのは自由なので、お好きにどうぞというだけの話です。
お前は勝手にそう思ってりゃいいし、恥知らずならばそれを公言し続けるが良いでしょう。
それを見た世間は吉田豪さんがそうしたように苦笑いを浮かべるだけです。
今後、この時浦兼ライジングについてもゆっくり解説していこうか思案中です。
https://youtube.com/shorts/AEgzN8YqT0g?si=Wr6jkPcfL7Bw4cvz
この記事へのコメント
自分は赤塚に影響を受けたのはいいとして、その他の多種多様な漫画の様式がわからないというのはどういうことでしょう。またバトル漫画が戦争賛美につながるとか、今時、左翼も言わない暴言というか失笑ものの発言にしろ、この人は本当に漫画家なのか?プロなのか?と常識を疑わずにいられません。例えば車田氏の「リンかけ」にしろ、「ギャラクティカマグナム!」と言って拳を適当に振るだけで相手が吹き飛んでいく。それに興奮する読者もいれば、それをネタとして捉えて大笑いする読者もいるのです。車田氏はその両方を見据えて描いていたのでしょう。ところが同じジャンプに連載していた小林にはそのどちらもわからなかったと。お前、本当にギャグ漫画家か?これはちょっとひどいです。プロの漫画家であれば、他の人がどういう意図でどういう漫画を描いているかぐらいはわかるはずです。
あ、ただし。小林の漫画は誰にも理解できないでしょう。ひどすぎて。
90年代のエピソードなどをありがとうございます。
twitterで本ブログを湧かせた葉月蓮氏とずっブロ氏の
お二人が議論していたのですが、堀辺師範が亡くなった後、
代表の「内心の欲」が道場の運営をむしばみ始めた時に
公論の看板を下ろしてファンクラブ化するか解散していれば
今日のような代表の転落もなかったのかなと。
葉月さんや牛タンメガネさんや〆切鯖子さんやぷにゅっくす氏ら
かつての代表が提唱していた「公」のビジョンに共感する人々を
自己都合で切り捨て、カレー氏ら残ったファンたちが作品を楽しむことさえも許さず、ただちぇぶりんによる介護と金さえあればいいみたいな
現状をみるにつくづくそう感じてしまいます。
ttps://www.gosen-dojo.com/blog/46020/
言われてみれば確かに、イボ先生ぴゃんの漫画は全部、現代が舞台で、茶魔みたいな異能キャラを主人公に据えたギャグ漫画ばっかりですね!
思えば、イボ先生ぴゃん本人もかつて「ゴー宣の読者は、『よしりん』というキャラの語り口に共感を寄せてくれているのだ」といったようなことを言っていた記憶があります。
その『よしりん』というキャラが自己研鑽を忘れ、長い年月、時浦氏を始めとするイエスマンや信者たちにスポイルされ続けて堕落しきって、キャラとしての魅力がまったくなくなったからこそ、作品のクォリティが下がり、本が売れなくなったということなのでしょうね。
『戦争論』が売れていたぐらいの時期に、香山リカが「小林よしのりは結局、母親から『あなたはそのままでいいんだよ』と言われたいだけなのでは」と分析していました。
イボ先生ぴゃん本人は「いやー、そんなこと全然ないね。母親がわしに愛情を注いでくれてたのは、子供なりに理解していたから」などと答えていましたが、今の状況を見るに、当を得た分析だったのだろうと思います。
イボ先生ぴゃん本人が望んでいたのは結局、世の人を夢中にさせる漫画を作ることでも、現代という時代を鋭く読み取って分析することでもなく、醜く歪んだ自分を、ありのままに受け入れてくれるスタッフや信者に囲まれることだったのでしょう。
そりゃ、儲けが出なかろうと、ヘタクソな公開カラオケを辞められなくなるわけです。
まさか、おぼっちゃまくんはドラクエより格上の作品だと思っているんでしょうか?
こっそり連載再開していた、新おぼっちゃまくんも人気が全く出ずに打ち切りになった事で、既に忘れ去られた過去の人気作の一つでしかない現実を受け入れたらどうなんでしょうか
「小林よしのりが語る凶暴な漫画家人生」
https://realsound.jp/book/2019/12/post-461734.html
>――『おぼっちゃまくん』を読むと、「これこそが自分の思う漫画だ」と感じます。今はこういうギャグ漫画が減ってしまいましたが、4等身のキャラクターがわちゃわちゃやってるのは安心して読めます。
>小林:わしの中でこの作風はどうしようもないんですよね。赤塚不二夫で育ってきたから。生身の人間と錯覚するほどに生き生きとしたヘンテコなキャラが動きまくる姿を描き、それが社会風刺と結びつくのが、わしにとってのギャグ漫画です。
>全部、子供と女性のためだね。ずっと子供漫画を描いてきたので子供を助けよう。子供を産むのは女性だから、産みやすい社会を作ろう。世の中をそうやって回していきたいんです。
2019年はまだ「新おぼっちゃまくん」も連載開始したばかりで
余裕があったのかもしれませんが、このブログで道場の実態を知ると
現実と言葉の落差に目が眩むような思いがします。
さておき、このインタビューで述べているように
代表が描いてきたのは基本「現実を舞台にしたギャグマンガ」
なんですよね。代表作の「おぼっちゃまくん」もそうですし、
デビュー作の「東大一直線」から最後の完結作「遅咲きじじい」に
至るまで「同時代の日本」に紛れ込んだ「変人奇人の主人公
(とその関係者)の日常」が一貫したテーマなわけです。
鬼滅の刃や呪術開戦のように超常的存在が存在する伝奇でもなく、
ヒロアカのように特殊な社会制度が組み込まれたifの世界でもなく、
るろ剣やゴールデンカムイのような時代考証を踏まえた過去でもなく、
パトレイバーやグリッドマンらロボットもののような近未来でもなく、
異なる種族や原理や文明が存在するダイの大冒険や今日流行の異世界もの
でもない。
要は世界観やテクノロジーといったものはほぼ同時代の現実を参照し、
キャラ(とその哲学らしきもの)に特化した作品のみを作り続けてきたわけです。それが本人のこだわりだったならよかったのですが、力量不足でそうした作品を構想することができなかったのかもしれませんね。(例外は「異能戦士」と「忠牛ばっふぁ朗」くらい?)
友人の秋元先生がこち亀以外にも歴史もの「Black Tiger」やサスペンスもの「Mr.Clice」を描き、同じ日常系のちびまる子ちゃんをバカにしていたらしい さくらももこ先生がファンシーな「コジコジ」を残したのに対し、
代表は振り返ると多作にもかかわらず驚く程に作品のレパートリーが限定されてるんです。
それならそれで、「ワシは日常を生きる読者に身近な笑いを届けられるような作品を作ってきた。関心と作風が違うので楽しめない部分もあったが、世界中の人に届ける壮大な世界を作ったのは日本の漫画家として誇らしいと思う」とでも論じればよかったのですが、あれこれ理屈をつけて鳥山氏とバトル漫画を貶めようとしているのを見るに、やはり才能・名声の差への嫉妬が抑えられなかったんでしょうね。
ゴー宣はバトル漫画か?
https://www.gosen-dojo.com/blog/46006/
>格闘漫画は「どんな練習をして、どんな技術を修得して強くなっていくのかといった理屈がわかる」から好き。
戦闘漫画は「なぜ強くなるのか全くわからないけれど、戦闘がエスカレーションして、果てしなく強くなっていく」から理解できない。
と、よしりん先生は書いていますよね?
>格闘漫画は、そうやって修業が描かれることを通して、人間の成長とか、精神性とかが描かれるのです。
戦闘漫画は、人間が描かれず、ただ強くなるのです。だから飽きるのです。
>確かに格闘漫画にも戦闘漫画にもバトルは描かれます。
しかし格闘漫画はバトルを通して人間が描かれるのに対して、戦闘漫画は人間が描かれず、バトルだけが描かれるのです。
>バトル「を通して、テーマを描く」のが格闘漫画。
バトル「だけを」描くのが戦闘漫画。
と言ってもいいでしょう。
小林=時浦氏のこの発言を読んで思ったのは、
「やはり小林氏はもちろんよしりん企画も90年代から
エンタメ漫画そのものへの関心を失っていたのだな」
バトル漫画は修行を通しての人間の成長とか精神性が描かれない、って……
今日の「鬼滅の刃」の炭治郎たちや「僕らのヒーローアカデミア」の出久たちはもちろん、おぼっちゃまくんを少年少女時代に読んでいた世代が触れたであろう漫画作品だけでも
悟空(ドラゴンボール)
ダイ(ダイの大冒険)
剣心(るろうに剣心)
ゴン(ハンター×ハンター)
マキバオー(みどりのマキバオー)
皆、作中で敗北・挫折とそれを乗り越えるための
修行・特訓が描かれた作品ばかりです。
ファンタジックな世界でリアルさが感じられない漫画に面白味はない、
という漫画論もあるでしょうが、それをリアルに感じさせるだけの
設定・キャラ造形・世界観・描写力があったからこそこれらの作品
は今でも歴史に名を残している(何なら続編が作られ、連載中)のです。
主人公が人間ですらない「マキバオー」の作者つの丸先生は
同作のテーマについて「頑張る、という事ですね。勝ち負けでなく
何かに向かってひたむきに努力する事の大切さを描きたかった」と
明言されています。
そのテーマ性はおそらく今日社会現象にもなった
「ウマ娘」にも引き継がれているでしょう。
漫画を通じて目指すものが変わったにしろ、
クリエイターとして作品の商業的成功だけでなく
そこに描こうとしたものに興味も失ったとしたら残念でなりません。
イボ先生ぴゃん、時浦両氏の鳥山先生への醜い嫉妬がダダ漏れで、読んでいて具合が悪くなってしまいました。
「再現なく続くバトル漫画が嫌いで、描きたいとも思わない」云々かんぬんと言っていますが、バトルを描くにはデッサン力や立体把握、視線誘導などのテクニックが必要ですし、主人公や敵のキャラクターにも魅力がなくてはいけませんから、そもそもイボ先生ぴゃんやよしりん企画のスタッフの力量で描けるわけがありません。酸っぱいブドウかっこ悪い。
「ドラゴンボールは、初期の冒険ファンタジー路線では人気が出なかったので、戦闘路線に変更した」とも書いていましたが、人気が出なかったというのはあくまでも、大ヒット作だったドクタースランプに比べて、ということですからね。
初期の冒険ファンタジー路線の頃も、連載開始前からアニメ化が決まっていたという異例の待遇でしたし、普通にイボ先生ぴゃんの作品よりは売れてましたから。
あと、「アニメ版おぼっちゃまくんは、アニメ版ドラクエに視聴率で勝った!」ともありましたが、どうせならドラゴンボールに勝ってからドヤ顔をしてほしいものです。
そもそもイボ先生ぴゃんは、バトルどころか恋愛も友情も、何もかも理解できない、自己愛以外何もない、空っぽの人生で年だけ取った幼稚な嫉妬老人じゃないですかー。
その嫉妬も、画力やストーリー構成、ストーリーの引きの上手さに対する嫉妬ならまだマシですが、「わしより売れやがって」という待遇に対する嫉妬なのだから余計にダサい。
欧米でもアジアでも中東でもアフリカでも、どの文化圏でも理解されているドラゴンボールの面白さが理解できなかったのは、イボ先生ぴゃんと時浦氏の幼稚な内面と理解力のなさのせいではないでしょうか。