傍系(次男)という不遇
平成最後の年末に書いた過去ブログの中から皇統に関わる話題を拾ってみました。
ゴー宣道場の皇室番タカモリ師範が激烈にやべえ記事をあげていて、私は腰が砕けてしまいました。
《私は残念ながら、秋篠宮殿下にはいくつか御勘違いがあるのではないかと考えている。》
《皇族(しかも次代の皇嗣)が敢えてそこまで踏み込んで、政府の方針へのご不満を直接述べられたのは、憲法が天皇に禁じた国政権能との関わりで疑問を持たれかねない(天皇ではない皇族なら国政権能に関与してよいという訳では勿論ない)。
それは、国民統合の象徴たる天皇のご近親としても、必ずしも相応(ふさわ)しくないのではあるまいか。》
《そのご発言の内容は残念ながら、ご自身の重いお立場に照らして十分に慎重なものであったかは、些(いささ)か首をかしげる。》
タカモリは秋篠宮殿下に対して、「皇族の分際で政府の方針に口出しするのは憲法違反だ!」と、まるで小姑のように目くじらを立てて非難し、それを国士の諫言として正当化している有り様です。
ゴー宣道場皇室番である師範は「所詮は傍系にすぎない弟宮など侮って構わない」という意識ありありで、秋篠宮家を意図的に軽んじてみせます。
タカモリは秋篠宮殿下よりも自分の方が皇室の歴史に詳しいと言わんばかりの蘊蓄を垂れて鼻息を荒くしています。
皇族である当事者よりも自分の方が皇室について知識があると言わんばかりに秋篠宮殿下へ諫言するタカモリの傲慢さはサスガにゴー宣道場師範なだけはあります。
以前、秋篠宮殿下が同じように誕生日の会見で物議をかもすことを仰った時は道場界隈には都合が良い発言であった為か、会見の場で発せられる御言葉は天皇陛下と皇太子殿下と共に話し合いをした上で語られているものであるなどとタカモリ師範は断言していたような記憶があるのですが、それは私の記憶違いでしょうか?
道場にとって都合の悪い発言をした途端、前言撤回なのでしょうか?
タカモリ師範はご自身の身の程をわきまえぬ諫言について、それこそ腹を切る覚悟はあるのでしょうか?
タカモリ師範はご自身の身の程をわきまえぬ諫言について、それこそ腹を切る覚悟はあるのでしょうか?
《何故「諫言」なんぞという不遜な発想が出てくるのか。
諫言とは言う迄もなく、目上の人を諫(いさ)めること。対談者の2人は、皇太子殿下についてそうした具体的な事実をしっかり承知した上で、かつ相応の覚悟を持って発言しているのか。とてもそうとは思えない。 》
他人の諫言には厳しいタカモリ師範は秋篠宮殿下をひたすら軽んじてみせるのですから大したお立場です。
《以下は元宮内記者の証言だ。》
《「天皇、皇后両陛下や皇太子ご一家に(宮内記者が)同行する場合は、宮内記者の移動や宿泊などの手配は、基本的に宮内庁報道室や東宮職が一括してやってくれるため、記者の方はそれに従うだけで、何の手間もかからない」
「秋篠宮さまの(平成18年10月の)京都訪問は何日か前に発表されていて、現地で取材の設定もされているとのことだったが、記者室のホワイトボードに『申し込み用紙』はなく、ただ東京駅を出発する東海道新幹線『のぞみ』の時間が書いてあるだけだ。だから切符は自分で押さえなければならない」》
《皇太子さまに同行の場合は、まず新幹線の改札からしてロープが張られるので、駅全体に何ともいえない非日常的な光景が出現する。耳にイヤホンをつけた黒いスーツの男たちがあちこちに立っているし、白い制服姿のJRの方々も何人もホームに立つ。直前になってホームの通行が規制されるのを待つまでもなく、もう何十分も前から、異様な雰囲気をホーム中の人々が共有している状態なのだ。》
《ところが、そういう雰囲気が、何もない。》
《一般乗降客の通行は何も制限されているわけではなく、ご本人も別に周りに手を振るわけでもない。雑踏の中をただスタスタと普通に歩いているだけなのだ。あまりに自然でさりげないので、すれちがう人々もそれが秋篠宮さまであることに気づいていない》
《秋篠宮さまは、ほとんど誰に気づかれることもないまま、京都駅に到着した。そしてまた4、5人でホームをスタスタと歩いて、人ごみの中に消えていった。東京から同じ列車に乗って同行した記者は私だけだった》
《皇后や皇太子・同妃などのお出ましは「行啓(ぎょうけい)」という(天皇の場合は行幸〔ぎょうこう〕)。それ以外の皇族にこうした言い方はしないので、秋篠宮殿下も同様だ。》
直系の子を取材する記者は高待遇であるが、傍系に過ぎない次男を取材する際はすべて記者側が手配せねばならないから面倒だという元宮内庁番の記者の証言を何の検証もなく鵜呑みにする専門家タカモリ。
直系の兄と傍系の弟との待遇の違いを比較して、ひたすら弟宮を貶めるタカモリ。
果たして、秋篠宮殿下を殊更貶める必要などあるのでしょうか?
ゲスにもほどがあるでしょう。
タカモリ師範をはじめ、ゴー宣道場関係者は我こそは尊皇派であると高らかに謳いますが、日本史を紐解けば、尊皇派を名乗るような奴らほど天皇の意思を無視してきたことが分かります。
彼らは自分が望む皇室像こそが正しいと信じ、それに当てはまらなければ、皇族にすら噛みつくのです。
彼らは自分が望む皇室像こそが正しいと信じ、それに当てはまらなければ、皇族にすら噛みつくのです。
平成最後の誕生日会見を観た小林よしのりの感想についても違和感しかありません。
《陛下の声をふるわせながらのお言葉を聴くとなんとも辛い気持ちになる。》
私も会見を拝見しましたが、辛い気持ちどころか、むしろ感動的であると感じました。
では何故に小林よしのりは陛下のお姿を見て辛い気持ちになったのでしょうか。
答えは以下に紹介する小林のブログ記事の中から垣間見ることが出来ます。
答えは以下に紹介する小林のブログ記事の中から垣間見ることが出来ます。
《沢田研二が哀れだ。全盛期の美しさ、カッコよさを知ってるだけに、老いの残酷さを見せつけられる。》
《しかし70歳であの老いた容貌は信じられない。わしがあと5年経ったら、あの顔になるのか?》
《しかし、あれほど容貌が老いてしまったら、わしは人前には出て行かない。》
ことほどさようにイボナメクジの老いに対する嫌悪感はハンパではありません。
天皇という立場上、私的な感情を表に出すことも憚られていた陛下が最期の誕生日会見で感極まることの何が辛いのでしょうか。
小林よしのりにしたら、老いの残酷さを見せつけられたとでも思ったのでしょう。
何しろ、小林よしのりは自身が勃起不全である事実を認められなくて、右往左往し、世間に向けては未だに自分は現役であるかのように嘯くという醜態を晒しているのですから老いへの恐怖は凄まじく、それへの忌避感が他者へのヘイトとなって表れるのでしょう。
小林よしのりにしたら、老いの残酷さを見せつけられたとでも思ったのでしょう。
何しろ、小林よしのりは自身が勃起不全である事実を認められなくて、右往左往し、世間に向けては未だに自分は現役であるかのように嘯くという醜態を晒しているのですから老いへの恐怖は凄まじく、それへの忌避感が他者へのヘイトとなって表れるのでしょう。
《国民としての役割を果たし終えて、若者の迷惑にしかならない老人は安楽死するのが一番いい。》
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