とっくに太宰治を超えている『よしりん御伽草子』!!
太宰治といえば、とにかく「笑い」が上手い作家である。昔風に言えば「ユーモア」があり、読んでいて思わず吹き出してしまう描写やくすぐられてクスリと笑わされる表現をする作家である。
そんな作家の作品について、実にマヌケな評価を晒していた奴がいて驚かされた。
《太宰治の『お伽草子』の『カチカチ山』を読み終えました。》
《この話の本質であるはずの「仇討ち」を最初っから完全消滅させてしまいます。》
《全く正々堂々と戦っていないから、これは「日本男児」であるはずがない、だからウサギは女である、しかもこの残酷さは処女だと言い始めるのです。紹介しながら、なんのこっちゃと思うのですが、そう言ってんだからしょうがない。》
《太宰は勝手にタヌキを自分と同一視して、若い女性に翻弄される三十路半ばの中年男である「私」の物語にしちゃってるわけで、つまり太宰にとっての御伽噺は「私」を表現するネタでしかなく、昔から語り継がれきた御伽噺の深層心理を解釈しようなんてことは、ひとかけらも思ってなかったわけですね。
そりゃもう、よしりん先生が「これは違う!」と思ったのも当然です。》
《『よしりん御伽草子』は、とっくに太宰の『お伽草子』を超えています!
執筆動機や、御伽噺へのアプローチの姿勢といった初歩の段階から、全く次元が違うのです!!》
冒頭に書いた通り、太宰治は狙って笑いを取る作家です。
太宰版御伽草子は当世風にいえば完全な「ギャグ」です。
そりゃ作品を読めばすぐに分かりそうなものなのですが、マヌケにはそれが理解出来ずに、真顔で「もう、わけわからん!!」と憤慨しているのですから馬鹿丸出しです。
太宰は読者が元ネタを知っていることを踏まえた上で狙ってやっているのです。
それに対して「昔から語り継がれてきた御伽噺の深層心理を解釈していない!」などトンチンカンな難癖をつける馬鹿が現れるとは実に笑えます。
さすがイボ読者は国語力がないと思っていたら、なんとこのブログ記事はイボ読者からのコメント紹介ではなく、全文あますところなくイボスタッフであるドロヘドロこと時浦兼の手によるものでした。
笑いを一切理解できない時浦兼が太宰のユーモアを読み取れないのはむべなるかな。
そりゃ「なんのこっちゃ」などと混乱するのも仕方ありません。
自称ギャグマンガ家小林よしのりは「これは違う!」などと言ったようですが、そりゃ違って当然であり、そもそも元ネタにある「敵討ち」をあえて捻じ曲げて新解釈を与えることで笑いを生み出しているのですよ。
太宰治は別に難解なブンガクではないので、御伽草子は一読して笑いを取りに来てるのが分かります。
分からないのは時浦兼と小林よしのりぐらいのものでしょう。
《なんと、太宰は「カチカチ山」でタヌキがお婆さんを殺していることについて、
「まさに陰惨の極度であつて、所謂児童読物としては、遺憾ながら発売禁止の憂目に遭はざるを得ないところであらう。現今発行せられてゐるカチカチ山の絵本は、それゆゑ、狸が婆さんに怪我をさせて逃げたなんて工合に、賢明にごまかしてゐるやうである。それはまあ、発売禁止も避けられるし、大いによろしい事で あらう」
なんて書いてたもんだから、びっくり仰天!
おとぎ話の堕落としか言いようのない無毒化改変は、戦後の反戦平和主義のせいかと思っていたのですが、実は太宰が『お伽草子』を出版した昭和20年の時点で既にかなり進んでいて、太宰はそれを「賢明」で「大いによろしい事」と言っていたのです!》
私はドロヘドロこと時浦兼のマヌケっぷりにびっくり仰天ですよ。
太宰の明らかな皮肉、アイロニーを文面通りに受け取っているのです。
あまりの馬鹿さ加減にこちらが恥ずかしくなります。
こんな読解力皆無のマヌケをブレーンにしているイボナメクジこと小林よしのり。
哀れすぎ。
この記事へのコメント
と興味が出たので私も読んでみました。
すると、きちんと解釈の条件設定がなされていますね。兎をアルテミス型の少女と規定し、狸が婆汁かひっかき傷どちらの罪だったとしても、とあるではありませんか。
作品の否定をしよう、という結論のあまりちゃんと読んでいないことがわかります。
私は作品としては面白かったのですが、愚鈍な男のリアリティがありすぎてギャグとしては楽しめませんでした。こういう男っていますよね…という気分になってしまうので。
男性には善良な狸が溺れかかって足掻いている、と最後にありましたが、彼らはこれを強く否定し、認めたくないのかな?と邪推してしまいましたが。