弱者権力という奇妙にすぎるワード
劇作家が劇団員に性行為を強要していたという記事を幾つか読み、先日葉月蓮さんと面談したことなどを再度思い返し、やはり告発ブログを継続してゆく必要性を感じました。
《大内氏の告発を受けて、谷氏は〈事実無根〉と反論する文章をインターネット上に投稿している。》
《私自身、同情が欲しいわけでも、心配してほしいわけでも、気を遣ってほしいわけでも、腫れ物に触るように扱ってほしいわけでもありません。事実としてあったことを述べています。もし、もしこれが「大内彩加」が受けた被害ではなく「皆さんの大事な、かけがえのない大好きな人」が受けた被害だったらどうしますか?「そういう人はいないなあ」という方は自分自身が、もしくは推しや応援している誰かがそのような被害を受けたら、と考えてみてほしいです。》
《わたしは誰もが劇団の犠牲になる必要などないと思っていた為、当時バイトで折込行けずども生活優先でいいだろうと思っていましたが、劇団員数人から、劇団業務をしないとわたしへの批判が相次ぎました。》
《谷は、人を見てセクハラしていて、わたしの見た限りでは、本当にガチでキレそうな人にはやってなかったように思います。》
《今ならハラスメントだと思えるようなことも、風潮、当時のわたしが、いまのわたしの思考や認識とは異なる部分もあり、おかしさや不快など感じてもいたけれど、仕方ないそういうものだと我慢したり諦めたり受け入れたりで、言えていなかったこともありました。》
《谷は、とてもとても弱い人だとわたしは思います。
自分の弱さを認められず受け入れらずに踠いてるように見えます。》
《中途半端な自己弁護で体裁保とうとしたり強がったり、自分のこと見えてなさ過ぎて、めちゃめちゃカッコ悪いダサさの極みだなと思います。》
この劇作家の件に関する記事を読み、イボナメクジは何を思うでしょうか。
自分にはまったく関係ないこととして、ただ他人事で済ましてしまうのでしょうね。
2018年9月に葉月蓮さんに会った時、彼女は道場から離れてそれほど時間が経っておらずに、心に負った傷がまだ癒えてはいないように見えました。
それでも気丈に、自分は被害を受けたとは思っていない。被害者意識で告発しているのではないと仰っていました。
しかし、彼女が受けた仕打ちを聞いた私は、その内容に衝撃を受けました。それは明らかに性加害と呼べるものであったからです。
今の世の中、被害に遭ったことを口にするだけで批判される風潮があります。
「被害者面」や「被害者しぐさ」などというフレーズが当然のように使われ、嘲笑する対象として扱われるのです。
イボ流に言えば、「弱者権力」という揶揄で、被害そのものを相対化し、無効化させるのです。
そして被害者の「落ち度」とやらをあげつらい、むしろ悪いのは被害者の方であるかのように誘導し、二次加害に励む。
だから実際に被害に遭いながら、「被害者ぶる」ことを忌避し、黙って泣き寝入りして撤退することを選ぶ人が多いのです。
道場を退会する人に対し、イボナメクジが「黙って去るのが礼儀」などと忠告するのも、それを正義の法則としておけば、声をあげた人が間違ったことをしている悪人に仕立て上げられるからです。
何故そんな不条理な理屈が通用するのか。
その答えは存外簡単なもので、人はいつどこで誰を踏みつけるか分からないからです。
ひょんな拍子で、誰かを踏みつけることがあるかもしれないし、気づかぬまま今もう既に誰かを踏みつけて生活しているかもしれない。
そうした場合、いつその加害を非難されるか分からない。自分が加害者として指弾されるのは誰だって嫌なものです。
だから事前に自己防衛として「なんでもかんでも被害認定したら何も出来なくなっちゃうよ〜。被害ファシズム社会だよ〜」などと言って、「むしろ被害に遭う状況を自ら作った方が悪くねぇか? いじめられっ子はいじめられるだけの理由があるんじゃねぇの? いじめを誘発してるのはやられる側にあるだろ? レイプにしたって、手を出して下さいって誘ってる雰囲気を出してたらそりゃやらなきゃ悪いじゃないか。それをあとから被害とか言い出すのはナシだろ?」と加害行為を正当化し始める。
そんな社会では被害を訴えることは恥とされるわけです。
「被害者面するのは恥ずかしい」
それがさも正しい考え方、人として美しい心の持ちようとされています。
どうして被害者が被害者として振る舞うのが恥なのでしょうか?
「だって被害者を名乗っている奴が嘘の証言をしてるかも」との反論をよく聞きますが、それは論点ずらしです。
「冤罪の危険があるから、被害者は口をつぐむべき」なんて馬鹿な理屈はありません。
証言は証言として検証すれば良いだけの話です。
当方ブログで告発した方々の証言も是非とも検証して結構です。
それをせずに「弱者権力」だの「被害者しぐさ」だのと単なる印象操作フレーズで証言者の声を封じる薄汚い手口を使うのは卑劣が過ぎるでしょう。
まったく名もなき被害者と著名なマンガ家の権力勾配を透明化して、「弱者権力」などと言って被害者叩きを煽るイボナメクジの腐れ外道ぶりを許してはいけません。
葉月蓮さんは紛う方なく被害に遭ったのですから、その被害について語ることを恥じる必要はありませんし、後ろめたい気持ちになる必要もありません。
自分が受けた心の傷を過小評価するなんて馬鹿げています。
2018年9月16日(日)に葉月さんと会食し、そこで道場サイドから受けた被害について語られた内容をブログ記事にし、それから葉月蓮さんとはLINEで情報交換し、さまざまな証拠画像も受け取りました。
《自ら辞めた人も、辞めさせられた人も、承認願望がかなり強い人だから、ものすごい不満を抱く。
わし個人を恨み、憎悪し、「ゴー宣道場」全体を恨み、おれを認めろ、私を承認しろ、小林よしのりなんか支持するなと、ウルトラアンチとなって、何かと攻撃や嫌がらせを仕掛けてくる。
特に門下生の内部に、小林よしのりへの不信感を植えつけようと、内部分裂を工作してくる。「ゴー宣道場」は組織ではないのだが、ある組織の中に「不信感」をバラまいて崩壊に導くのは、極左工作員の手法だ。》
《「ゴー宣道場」だけが世界じゃないのだから、自分の承認願望を充たされる別の場所に行けばいいのだ。なぜ執着し、ストーカーになるのだろう?》
イボナメクジにとって都合の悪い意見や批判・告発に対し、論理では敵わないとなるや必ず使うフレーズ。それが「承認願望」「アンチ」「ストーカー 」「極左」などです。
それらのレッテルさえ貼れば「ハイ論破」だと、わりとマジで思っているのでしょう。
だからシンパも今現在Twitter上でそれをやって「#論破祭り」などとはしゃいでいるわけです。
クソみっともない連中です。
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