論破祭りという犬笛 -施光恒バッシング
前回からの続きです。
現在、イボナメクジは「#論破祭り」なる犬笛を吹いてシンパを焚きつけ、気に入らない相手への攻撃を命じています。
そして今一番叩いている相手が九州大大学院教授の施光恒です。
《もう終わってる人は、終わった人らしくおとなしく引っ込んでいてくれればいいのに。》
いやいや、この施光恒という奴ってつい最近まで道場に登壇させたり、藤井聡とイボナメクジの3人で鼎談した内容を書籍化する予定があったほどの人物でしたのに、急転直下、一点でも考え方に違いがあるやバッシングを始めるといういつものパターンにはまりました。
面白いのはイボの正反対の主張をしている言論人など山ほどいるのに、一度でも好意的に接してくれたり、協力的だった相手に対して、ちょっとした意見の相違ぐらいのことで、その全存在を否定し始めることです。
要は下手にイボと関わりを持つと必ず恨まれ、取り憑かれ、憎悪の言葉を浴びせられる羽目になるわけです。
これはまさに道場ムーブであり、誰一人逃れることは出来ません。
逃れる唯一の方法はエキノコックスやパンダーウーマンが示してくれています。
まあ、イボ道場のようなカス集団に呪われ、ネット上に呪詛の言葉をばらまかれるぐらい痛くも痒くもないという人が大半なのかもしれませんが。
イボとその仲間の振る舞いは、学校のクラス内で同級生に嫌がらせをしたり暴言を吐いて孤立している生徒のそれに似ています。
孤立しているその生徒にクラス委員の女子が優しい声をかけたところ、次第に打ち解け、そして一方的に好意を寄せ、自分の物にしようと力ずくで抱き寄せたところ、相手から困り顔で「そういうつもりじゃなかったの」とやんわり拒絶されたイボ生徒。
クラス委員の女子生徒はそれでも一方的に歪んだ好意を寄せられたことを否定するわけでもなく、また笑いものにするわけでもなく「これからもクラスメイトとして仲良くしましょう」と相変わらず優しく語りかけてくれているというのに、イボ男子は彼女を突き飛ばし、それ以降教室で顔を合わせるなり罵倒し、あまつさえ相手のルックスについて査定した上で「酷い顔面。伝統破壊級のブス!」などと嘲笑し、学校中に「誰とでもやる公衆便所」などとありもしない噂を流し、「わしを裏切ったことを後悔させたるけん。へぼんだらぁ!」と脅す感じ。
現在のイボナメクジのこのような醜態について、もともとは読者だった人たちが、「かつて脱正義論を描いた人とは思えない。まさに騏驎も老いては駑馬に劣るか…」などと嘆いていますが、果たしてイボナメクジは年老いたことにより劣化したのでしょうか?
いやいや、実はそんなことはなく、脱正義論は単に左派の活動への嫌がらせ目的でしかなかったのです。
自分をチヤホヤしてくれていた学生たちが距離を置き始めたことに不満を抱き、「左翼活動家が学生をオルグしている」という難癖をつけたわけです。
左派にしろ右派にしろ、それこそ宗教団体にしろ学生サークルにしろ、同人会にしろ町内会にしろ、その活動を維持する為に勧誘するのは当たり前であり、勧誘行為そのものを否定するのはおかしな話なのですが、誰しも何がしかの「強引な勧誘」を受けたことがあるものですから、勧誘行為そのものに負の感情を抱きがちで、そこを大袈裟に喧伝して批判すれば賛同する人を得ることが出来るという寸法です。
「脱正義論」が運動そのものを批判したとするならば、その直後に右派の運動に傾倒するのはおかしな話でしょう。
要は自分を歓待し続けなかった左派への反発から、その逆張りとして一気に右派の側について、左派陣営へ嫌がらせをしただけの話なのです。実にくだらない事実です。
この時、言い訳のように「読者は運動には巻き込まない。良き観客でいてくれ」などと表向きは描いていましたが、実際はかなり多くの読者が保守系団体に取り込まれていきましたし、また保守系団体の人たちを新たな読者層として取り込みました。
これは卵が先かニワトリが先かみたいな話になりますが、歴史教科書をつくる会参加以降、イボマンガが急激に部数を伸ばしたのは明らかに右派団体の組織買いによるものでしょう。
それを証拠に保守派と仲違いしてから、イボマンガは新刊を出しても平積みされることがなくなりました。
ここで一つ指摘しておきますが、イボが慰安婦問題を取り上げたあとに保守論壇がイボにコンタクトを取ったと誤認している古参読者は多いと思いますが、それは違います。
漫画のストーリーの都合上では慰安婦問題を取り上げたマンガを読んだ西尾幹二らが感銘を受けて声をかけてきたとしなければ辻褄が合いませんが、実際には薬害エイズの運動で左派と揉めているのを知った右派陣営がイボと接触し、そのあとにイボナメクジは唐突に慰安婦問題を取り上げたのです。
自分をチヤホヤし続けなかった左派への意趣返しです。
なんのことはない、やっていることは今と寸分の違いもないのです。
あの頃はことの次第を知る術がなく、イボからの発信で全体像を予想するしかなかったのですから分からなくて当たり前です。
しかし今はほぼ可視化されてしまうので、かつてと同じ卑劣な手口などはすべて晒されてしまうわけで、ただそれだけの違いしかないのです。
イボナメクジは自分をチヤホヤしてくれる場所が大好きです。
そりゃ心地の良いぬるま湯は誰だって好きですが、内輪のぬるま湯に浸かっているだけでは人として成長しないしただ腐っていくだけだから、多少しんどくても外界に向かわなくてはなりません。
《やはり「狭い世界にハマりこんで、自分たちにしか理解出来ない理屈を並べて、頷き合っている集団に所属すると視野狭窄に陥るからヤベエよね」という結論に落ち着きました。》
《内輪ノリで内輪ネタをして内輪ウケをする。
そのような内輪だけのグルーヴ感が心底苦手です。
そのようなコミュニティからはなるべく距離を取るようにしています。
だから常に外縁に立つように心掛けています。
いつも俯瞰して見られる視点を持っていたいのです。
決して傍観者にならぬように意識しながらもキワッキワの端っこへ移動します。
円の中心で、内輪ノリが始まる気配を感じると、円の外へ出ます。
そうして内輪ネタを鳥瞰して苦笑いを浮かべます。
その苦々しいネタに対して内側の人々がゆるゆるな気分で大ウケして盛り上がっているのを見て寒々しく思い、反面教師といいましょうか、前車の覆るは後車の戒めと申しましょうか、殷鑑遠からずと表現しましょうか、人の振り見て我が振り直せ的なことをば思うようにいたしておるわけでありますのですよ。
内輪ネタで笑う人は本心から面白いと思って笑っているのだろうかと思ってしまう私です。
仲間ハズレを怖れての愛想笑いではないのだろうかと思ってしまう私です。
声の大きい人の内輪ノリに流されたりしていないだろうかと思ってしまう私です。
「全然笑えないんですけど。むしろクソ寒くて不快なんスけど」
本当はそんなことを思いながら、盛り上がってるふりをして、仲間ハズレにならないように腐心しているとしたら、その涙ぐましい努力を私は讃えたいと思います。
私にはとても真似は出来ませんから。》
イボナメクジについて知る術はイボのマンガしかなく、イボの読者についてもイボがマンガで紹介するものでしか知る術がない時代がありました。
マンガの中で読者について「一般常識のある普通の庶民」として描かれていたので、ネットの可視化によって知ったまさかの実態にショックを受けた私は昏倒しそうになりました。
決して傾倒はしませんでした。
では、続きはまた次回。
この記事へのコメント
まあ見ず知らずのRED他人ですが。
怖くて関わりを持ちたくありませんな。関わりを持たなくて良かった。ありがとうございます鷲ヲさん。